北海道ゲーマーズ・オーラルヒストリー

  • 記事タイトル
    北海道ゲーマーズ・オーラルヒストリー
  • 公開日
    2023年05月19日
  • 記事番号
    9546
  • ライター
    藤井昌樹

第一回・荒木 聡さん(元ゲーム同人誌作家)Vol.1

「小樽・札幌ゲーセン物語展」、「雑誌・攻略本・同人誌ゲームの本展」の企画を通して知り合った北海道在住のゲーマーの皆さんにお話を伺う新企画がスタートします。
ゲームはプレイヤーがいてこそ成立するものであり、そしてゲームの遊ばれかたが時代によって大きく変化しているのなら「プレイヤーの記録」も重要なのではないかという視点からインタビューを行います。
第1回は、1984年から87年にかけて「札幌南無児村青年団」、「HAM」というサークルの代表としてビデオゲーム同人誌を発行されていた荒木 聡さんにインタビューしました。
80年代当時ではまだ珍しかった、攻略を重視せず、ゲーム内のキャラクターや世界観の掘り下げをメインとした同人誌がどのように制作されたかを中心にいろいろとお話を伺いました。
なお、荒木さんはインタビュー(2022年11月)の終了後、2022年12月にご病気のため急逝されました。ご冥福をお祈りすると共に、本記事が荒木さんの貴重なオーラル・ヒストリーを後世に残す一助となればと思います。

1984~87年にかけて「札幌南無児村青年団」「HAM」の代表として同人誌を制作されていた荒木 聡氏。

70年代、荒木さんとビデオゲームの出会い

―― 荒木さんのこれまでについて時系列順にお聞きしていきます。まず荒木さんがお生まれになった年はいつですか?

荒木 昭和40年、1965年生まれです。

―― そうしますと、最初に触れたテレビゲームというのは?

荒木 たしか昭和48年に定山渓温泉で見た『PONG』(アタリ/1972年)のコピー版だったと思います。当時、幼稚園のOB会というのがありまして、毎年いろいろなところに旅行に行っていました。

―― そのときのお住まいは小樽ですか?

荒木 はい、小樽です。小樽から遠いところだと温根湯温泉だとか洞爺湖にも行っていました。その中で定山渓のけっこう大きなホテルに広いゲームコーナーがあって。そこに何やらテレビモニターの中で動いているものを見つけて、これまでの遊びとは違う表現のものでおもしろいと感じました。一方で同じ頃によく目にしたエアホッケーにも似ている。当時、自分はエアホッケーが好きだったので、そのテレビゲームも楽しそうだなと思い、遊ぶようになりました。それが一番最初かな。

―― わたしは荒木さんより4つくらい年下ですが、デパートやホテルのゲームコーナーで『PONG』のおそらくコピー版を見たのがテレビゲームとの最初の出会いでした。まだゲームだけが遊べる施設としての「ゲームセンター」がなかった時代ですね。

荒木 そうですね。それと当時はボウリング場にも小さいゲームコーナーがありました。

―― だから当時はゲームを遊びに行くというよりは、デパートやホテル、ボウリング場に行ったらそこにゲームコーナーがあってついでに遊ぶという時代でしたね。

荒木 そうです、そういう時代です。その後、時系列でいうと『ブロックくずし』があるわけですよね。

―― その頃は、気が向いたら親からお金をもらってゲームを遊ぶというような感じでしたか?

荒木 そうでしたね。上達を意識してみたいなことじゃなくて。デパートのゲームコーナーやボウリング場、小樽でいうと松竹や花園のボウリング場などでゲームをよくやっていました。後に『スペースインベーダー』(タイトー/1978年)がブームになったときに多くのプレイヤーが現れて、自分もその人の波に紛れ込めるようになって本格的にゲームを好きになっていきました。他にやることがなかったので、お小遣いの多くをつぎ込みました。

※小樽松竹ボウリング

―― インベーダーの頃の年齢はおいくつでしたか?

荒木 中学2年生の頃ですね。

―― その頃は小樽市内にいくつかあったゲームコーナーを巡るような感じで。

荒木 よく行っていたのが第一ビルにあるバスターミナルの待合室、今は小樽市役所の分庁舎になっているところと併設されていたゲーセン。あそこが駅から近かったので、いわゆる不良はいましたが、あまり変な人がいなくて。周りに人が多いから何かあったときに助けてくれる人がいる感じでした。他に駅近くのパチンコ・ハーバーライトの地下にあったゲーセンが安全な感じでした。小さな店にひとつだけ筐体があるところもあって、そこは店の外で遊べたから、不良に何かされるということもありませんでしたね。あとはデパートの長崎屋。そこはインベーダーに限らず他のゲームも置いてありました。警察の重点巡回ポイントだったので、子どもだった自分はたまに職質されることがありました。

※ドリームゲームランド(小樽駅前第一ビル1階)

※ハーバーライト地下

※HapipiLand小樽店(長崎屋3階)

―― その頃はゲームコーナーが不良の溜まり場のように見られていて、警察など大人が見回ることがあった時期でしたね。

荒木 そうですね。長崎屋は特にそれが多かった。後に「戦艦ヤマト」や「月光仮面」といったゲーセンが小樽にオープンしますが、その頃になると不良にひどいことをされるということはなかったですね。

※戦艦ヤマト

※ゲームプラザ月光仮面

―― インベーダーの話に戻しますが、プレイするときは上達を意識していたのですか?

荒木 そういう意識はなかったですね。ただ、丁寧に遊びたいという気持ちはありました。自分は落ち着きがないこともあって、どんどん上手くなっていくというきっかけを掴めなかったというかな。だからそのプレイそのプレイで丁寧にやっていくということしかなかったです。反射神経が追いつかないというのはしょうがないのだけど、その中で少しずつでも丁寧にプレイする。

―― ゲーム攻略の観点で言うとインベーダーは8発目にUFOを撃つと300の高得点といった要素がありましたが、そういうことは意識していませんでしたか?

荒木 意識しないわけではなくて、できれば狙うようにはしていましたが毎回できるわけではなかった。そこが落ち着きがないということでもあったのですね。上手い人ならコツを掴んだらそのリズムを保てるのでしょうけど、当時の自分はそうではなかったので。そういうことから、攻略をあまり考えないようにしたというのはあります。そのほうがゲームを楽しく感じられたのです。

―― この当時、荒木さんはゲーム以外ではどのようなことをして過ごされていましたか?

荒木 親からいろいろな習い事をさせられていました。小学生のときは画家さんの教室で絵を描いたり、書道をやらされたり。絵に対するこだわりが自分の中にあるのは、そこからだと思います。

―― 荒木さんは後の同人誌制作でイラストも描かれますが、絵についてはその頃から関心があったのでしょうか?

荒木 ありました。でも本当にやりたかったのは、実は音楽で。ピアノをやりたかったのだけど、やらせてもらえなかった。だから絵と書道だけ。あと水泳もやっていましたね。

―― 習い事が多かったのですね。

荒木 そうですね。自分でこれをやりたくてということではなくて、親に押し付けられたものが多かったです。

80年代序盤、ゲームセンターに通う日々

―― ゲームに話を戻すと、この後にナムコが『ギャラクシアン』(ナムコ/1979年)などで台頭してくることになります。そういった80~82年当時は札幌南無児村青年団の活動がはじまる数年前になりますけど、そのときの荒木さんとゲームの関わりはどういったものでしたか?

荒木 そのとき僕は中学3年になって、道南の八雲町に転校しました。その後、さらに転校して余市町へ。そのまま余市の高校を卒業します。八雲も余市も小さい町ですが、それでも各町にゲーセンはあって。シューティングゲームが多かった時代でしたから『ギャラクシアン』や『ギャラガ』(ナムコ/1981年)、『ムーンクレスタ』(日本物産/1980年)をよく遊びました。たまに『ラリーX』(ナムコ/1980年)も遊んでいたのですが、だんだんドライブゲームが好きになってきて『ポールポジション』(ナムコ/1982年)も遊ぶようになりましたね。『ポールポジション』は自分に合っていると感じて、だんだん極められるようになっていきました。『ポールポジション』は僕が攻略を意識した最初のゲームですね。余市のときは実家が小樽でそこから通っていたので、小樽のゲーセンにもまた行っていました。小樽だと大型筐体が入りやすかったので『ポールポジション』は小樽で遊んでいました。

―― この頃はゲームメーカーとしてのナムコというのは認識していたのですか?

荒木 していたと思います。当時はすでに「大橋照子のラジオはアメリカン」を聴いていましたから。この番組はナムコがスポンサーになっていて、こういうゲームメーカーがあるんだということを知りました。その中で『ポールポジション』のCMや「青春を語る8章」という豆本のことも知り、さらにそこからゲーム中に登場するエミちゃんというキャラクターの存在も知りました。それでエミちゃんに対して、後に言う「萌えた」ということになります。

―― 「青春を語る8章」は実際に読まれましたか?

荒木 はい。実際にゲーセンでいただきました。こういった豆本が作ることができるようなゲームの文化、ドライブゲームの文化というものがあるんだということをはじめて意識させてくれたのが「青春を語る8章」だったと思います。

当時ナムコ直営のゲームセンターで配布されていた豆本。『ポールポジション』、『リブルラブル』、『ディグダグ』の3冊があった。
©BANDAI NAMCO Entertainment Inc. 

―― 豆本をもらったのは小樽のナムコ直営店ですか?

荒木 はい。「プレイシティキャロット小樽店」だったと思います。

※プレイシティキャロット小樽店

―― そうなんですね。わたしは本格的にゲームにハマるのは『ゼビウス』(ナムコ(現:バンダイナムコエンターテインメント)/1983年)からなんですけど、当時は田舎に住んでいたこともあってメーカーの直営店がなく、通っていたのはデパートや駄菓子屋だったので、豆本を含めた公式の情報源に触れる機会がありませんでした。今、振り返ると当時そういった情報源に触れられたか、そうじゃなかったかの差ということがけっこう大きかった気がします。当時はまだゲーム専門誌もなかったですし。

荒木 僕が以前読んだレトロゲーム関連の本の中で、当時「社会悪」と言われていたビデオゲームを何とかしようということで、ノベルティも含めていろいろなものをナムコ直営店で用意していたというようなことを書いていました。豆本はその一環だったのだと思います。「青春を語る8章」の中にはマンガがあって。エミちゃんのために主人公のレーサーが頑張るというストーリーだったんです。その辺りはすごく心に響きました。そこからゲームのストーリー性というものも意識しはじめたと思います。

―― マンガの中で女の子がドット絵ではなくイラストで描かれていましたよね。それがあったことで、元がドット絵だったものを、よりキャラクターとして認識したということはありますかね。

荒木 それは、あると思います。

―― 逆に言うと、もしその冊子を見ていなければ単なるドット絵で描かれた女の子という認識で終わっていた可能性もありますか?

荒木 そうかもしれないですね。

―― 荒木さんがその後に作る同人誌の内容を考えると、「青春を語る8章」が与えた影響は大きかったと言えそうですね。

荒木 言えますね。わたし自身、今、豆本を持っていないのが残念です。

―― 『ポールポジション』は完走してクリアできるようにもなって。

荒木 はい。その後の『ポールポジションII』(ナムコ/1983年)も完走できるようになって、いよいよ次はタイムアタックを目指すようになります。数年後、「巣鴨詣で」と称して「プレイシティキャロット巣鴨店」に遠征で行ったときにもそこに置いてあった『ポールポジションII』をプレイしました。

―― それは同人誌を作っていた大学生のときのお話ですか?

荒木 そうです。そのときまで継続して『ポールポジションII』をプレイしていました。

―― 『ゼビウス』がブームになった83年は荒木さんはおいくつの頃ですか?

荒木 高校3年生から予備校生の頃だったと思います。

―― 『ゼビウス』をはじめて見たときはどういう印象を持たれましたか?

荒木 不思議なゲームだなと思いました。難易度的には難しいゲームだとも思いました。それでも最終的にはエリア16までは行けましたので、インベーダーの頃と比べると自分のゲームの腕前は上達したんじゃないかとは感じました。弾の避けかたも上手くなりましたし。主に札幌そごう9階のゲームコーナーで遊んでいましたが、上達を感じられたのは嬉しかったですね。

札幌南無児村青年団、誕生の経緯

―― 札幌そごう9階のゲームコーナーに最初に行ったのはいつ頃ですか?

荒木 大学に入る前、予備校のときですね。「札幌南無児村青年団」を創設した二人、やまざき拓くん・則巻猫兵衛くんと83年の秋くらいにはじめて会ったときに連れて行ってもらったのが最初です。

※札幌そごうゲームスポット

―― では、その頃の話に入っていきたいと思います。高校を卒業されて、いったん予備校に入られます。以前そのときのお話を伺った際、予備校に置いてあったコミュニケーションノートを読んだことが札幌南無児村青年団を創設するお二人と荒木さんが出会うきっかけだったとお聞きしました。

荒木 そうです。自習室に置いてあったノートに書き込んでやり取りをするうちに仲良くなった人が何人かいて。そのうちの一人が則巻猫兵衛でした。則巻猫兵衛はペンネームですが、後に南無児村青年団の創設に関わり、『リブルラブル』(ナムコ/1983年)の攻略同人誌「FANTASYへのアプローチ」を書くことになります。

―― やまざき拓さんと一緒に。

荒木 はい。

―― 則巻さんは「おーるらうんど」以降も執筆されているのですか?

荒木 いや、『リブルラブル』の同人誌だけです。則巻もやまざきも大学進学のときに青年団から離れました。

―― やまざきさんはその時点でハイスコアラーだったのですか?

荒木 ハイスコアラーでした。特に『マッピー』(ナムコ/1983年)のハイスコアラーとして全国的に有名でした。

―― やまざきさんは、関東の大学進学後に制作された同人誌「Be♡∞(infinity)…」で、札幌南無児村青年団設立の経緯をやまざきさんの視点で書かれています。ここでもやまざきさんが本格的にハマったのが『マッピー』で、札幌そごう9階ゲームコーナーにも行っていたことも書かれています。やまざきさんが方眼紙で『マッピー』の攻略マップを作られたところ、そごうのゲームコーナー側から店内での配布用にも作ってほしいと頼まれたという記述もありますね。この頃にやまざきさんは「TACつうしん」という個人制作の冊子を作られています。

荒木 そうでしたね。この頃のわたしはまだ青年団に入りたてのペーペーみたいなときでした。

やまざき拓氏が大学進学のため関東に引っ越したあとに制作された同人誌「Be♡∞(infinity)…」。荒木さんがイラストを提供しているほか、見城こうじ氏も制作協力として名を連ねている。やまざき氏は後にプロの編集者としてゲーム攻略本の制作に携わる。

―― まとめますと、予備校のノートを通じて知り合った則巻さんから、そごうのゲームコーナーに行ってみようぜと誘われて。

荒木 うん。おもしろいやつがいるから行こうぜと。

―― そのおもしろいやつが、やまざきさん。

荒木 そうそう。彼も別な予備校に通っていました。

―― そこでいろいろなメンバーが集まって、札幌南無児村青年団が設立されるのでしょうか?

荒木 ということではなく。まず札幌南無児村青年団は、やまざきと則巻二人のものだった。

―― 最初の同人誌「FANTASYへのアプローチ」の時点では、お二人だけ。

荒木 そのときは、まだその二人だけになります。しかもナムコのファンサークルでもなく、要は「FANTASYへのアプローチ」を作るにあたっての企画集団みたいなものでした。

―― 便宜上付けた名前みたいな。

荒木 そうですね。その後、この名前にインパクトがあって良かったねという話になります。大学進学が決まったやまざきと則巻が抜ける84年の2月頃、そごうに集まるメンバーが入れ替わるようになりました。そのときに加入したのが当時「Jmt」というペンネームを使っていた雑識童子を含めた「おーるらうんど」にメインで関わるライターになっていく人たちです。

―― その新規メンバーは、荒木さんと同じ予備校だったのですか?

荒木 いや、まだ高校生でした。自分よりひとつ下くらいですかね。

―― 「FANTASYへのアプローチ」の制作には荒木さんも関わっていたのですか?

荒木 わたしはそごうにいましたけれど、ただのプレイヤーでした。『リブルラブル』をプレイして何か攻略のヒントを見つけたときに一人のプレイヤーとしてやまざきに教えるみたいなことはしていました。この時点ではまだサークル活動に関わっていなかったです。

―― 最初にやまざきさんとお会いした時点では「FANTASYへのアプローチ」は完成していなかったのですよね?

荒木 はい、まだ完成していませんでした。

―― 荒木さんがやまざきさんと会ってどれくらい経ってから「FANTASYへのアプローチ」は完成したのですか?

荒木 4か月くらいでしょうかね。その4か月の間にそごうの常連がみんな『リブルラブル』に夢中になって。僕はキャラが可愛いだとか、このゲームは農業の話なんだといったところに魅力を感じていました。

―― そごう9階に集まるメンバーの中で流行っていたのですね。

荒木 一大ブームになっていましたね。それまで仲間内で流行っていた『マッピー』を忘れて、というくらいの勢いでした。

札幌南無児村青年団のメンバーが熱中した『リブルラブル』(※PS4版を使用)
LIBBLE RABBLE™& ©Bandai Namco Entertainment Inc.
Arcade Archives Series Produced by HAMSTER Co.

―― 「FANTASYへのアプローチ」が荒木さんにとってはじめて見たゲーム同人誌になるのですか?

荒木 そうなるでしょうね。ただ直接は見ていないけどゲーム同人誌の存在は「NG」に掲載された記事などで知っていましたね。有名な「ゼビウス1000万点への解法」の存在は知っていましたが実物は見たことがなかったです。

―― 「NG」はそごう9階にも置いてあったのでしょうか?

荒木 置いてありました。でも、わたしが読んだのは途中の号からですね。

―― 荒木さんが最初に手に入れた「NG」は何号ですか?

荒木 5号かな。

―― 今、荒木さんが実際にお持ちになっている中で一番古いやつですね。

荒木 そうですね。読んだのは3号が最初だったかな。3号というと『フォゾン』(ナムコ/1983年)の頃。1983年の10月は、ちょうどわたしがそごうの9階に行き始めた頃です。この頃のナムコはビデオゲームというよりアミューズメントの会社として認識していました。

「札幌南無児村青年団」最初の同人誌となる「FANTASYへのアプローチ」

―― 荒木さんがはじめて「FANTASYへのアプローチ」を読んだときにどのような感想を持たれましたか?

荒木 やはり、やまざきと則巻、あいつらはすげぇなと。『マッピー』の攻略マップを作っていたときの凄さを知っていましたから、同じクオリティで攻略本を作ったらこういうものになるんだなと。それを嬉しく感じましたね。そして札幌でこれだけのものが作れるのだなとも思いました。

―― やまざきさんが作られた『マッピー』の攻略マップも相当なインパクトだった?

荒木 はい。自分は反射神経が良いほうではないので攻略本の内容をそのままトレースできるわけではなかったですけど、人によっては便利に感じるだろうなと思いました。

―― 『マッピー』の攻略マップは、荒木さんがやまざきさんと出会う前に完成していたのですか?

荒木 完成していました。このマップはそごうのゲームコーナーの中で他のお客さんにも公開されていました。

―― 「FANTASYへのアプローチ」について、やまざきさんから制作過程の詳細を聞いたことはありますか?

荒木 いや、ないですね。この同人誌はバインダーノートに書いたものをコピーして本にしたというのは聞いています。

―― この本は数冊作って、配布もしたのでしょうか?

荒木 はい。配布については、本の制作に関わったメンバーが貰えたという形です。わたしも攻略のヒントの提供で手伝いましたので。

―― かつ、そごうゲームコーナーの店内にも常設して。

荒木 はい。店内でこの本を見ながら『リブルラブル』をプレイできました。

―― 「FANTASYへのアプローチ」は84年の2月に発行されます。誌面にはナムコ公式の豆本「BASHISHIBOOK」が同年3月に出ることも書かれていますね。公式より先に出た攻略同人誌であることを考えると、ちょっとすごいことではあります。

荒木 そうですね。2月は受験の時期なので高校の現役も浪人もそごうのメンバーは焦っていた頃でもあります。

―― それは大変な時期ですね。ちなみに「FANTASYへのアプローチ」の制作にあたっては、そごう9階の店員さんやナムコ北海道事業所からのバックアップというのはあったのですか?

荒木 このときは、なかったです。ファンが勝手にやっていたというところです。作るにあたって不正なことはやっていないかというチェックはそごう店員のほうでしていたと思いますが。

―― 完成した本をそごうゲームコーナーの店内に置くにあたっては店員さんの了承は得たうえで?

荒木 そうですね。『マッピー』の攻略マップからの経緯がありますから、そこは理解を得ています。

80年代中期に通っていた札幌のゲーセン

―― 「FANTASYへのアプローチ」の完成後、やまざきさんと則巻さんが抜けられて、残った荒木さんたちによって同人誌「おーるらうんど」が84年から刊行されます。「おーるらうんど」を作りはじめた頃は、そごうの9階がゲームを遊ぶ拠点だったということですけど、札幌市内や小樽市内にある他のゲーセンにも行かれていましたか?

荒木 行くことはありました。やはりナムコ直営店は気になっていたので、琴似キャロットや「赤い風車」には行っていました。

※プレイシティキャロット琴似店

※プレイタウン赤い風車

―― 「おーるらうんど」1号を発行された辺りからは、同人誌の制作ありきでゲームに触れるという感じだったのですか?あるいはそれはそれとして純粋にゲームを遊んでいた?

荒木 「ゲームをどのように自分たちは料理しようか」というような考えかたをしていて、それをどう同人誌に落とし込むかと考えていました。だからまず「ゲームありき」ではあったのです。まず同人誌を作らなきゃということではなくて。3号4号と続く頃には同人誌を待ち望む人が出てきたので、編集方針をちゃんと考えるとか商業誌的な考えで同人誌を作るようにはなっていきましたが。

―― 基本的にはゲームはゲームで純粋に楽しむようにしていたということなんですね。

荒木 そうですね。ゲーム自体がまず好きだから遊んでいたので、遊ぶときは同人誌のことは忘れていました。僕は切り替えが早かったので、同人誌の文章を作るとなれば集中していくらでも書けました。だからゲームと同人誌を混同してしまうことにはあまり心配はしていなくて。どちらかというとイラストが上手く描けなかったのが辛かったですね。文章は完成しているのにイラストが上手く組み込めないというのは毎号そうでした。

―― そうでしたか。ちなみに当時ゲーセンで稼働しているゲームは一通りプレイしていましたか?それとも荒木さんが関心のあるゲームだけをやっていた?

荒木 一通りプレイしていました。当時はシューティングが主流で、他のジャンルもあるという感じでしたが。やはり触れてもいないゲームの批評はできないという思いはありました。僕はクラシック音楽も好きなんですが、クラシックも同じ理由で一通り聴いていましたね。一通り遊ぶことで何かネタが生まれないかというところもありました。先ほど同人誌制作とは別にゲームを遊んでいたと言いましたが、この部分に関しては同人誌を意識してプレイしていたと言えるのかな。

―― なぜこの質問をしたかというと、当時稼働していたアーケードゲームを一通りプレイしていたかどうかということにわたしの個人的関心があって。2021年から小樽文学館で一連のゲーム展を開催したことで、荒木さんを含めて当時のゲーマーさんたちと知り合う機会がありました。当時の話をすると、皆さん同じゲーマーではあるのだけど各人それぞれにゲームとの触れかたが違っていることがわかって。わたしは自分の関心のあるタイトルしか遊ばないところがありました。だからメジャーかどうかを問わずプレイしたことがないゲームがぽつぽつあります。一方で、例えばスコアラーの人たちはハイスコアという目的があるからなのか、一通りのタイトルを遊んでいるかたがそこそこ多い。その違いにおもしろさを感じていて、最近は新しくお会いしたゲーマーのかたにはこの質問しています。

荒木 もしかしたらスコアラーの皆さんも同人誌を作っていた僕らと本質的には同じで、ハイスコアを取ることで自分の名を馳せることになるかもしれないという期待感があったのじゃないでしょうか。自分たちが考えていた「同人誌のネタ」から読者に名前を知ってもらうというところに通じるところがあるのかもしれない。

―― 同人誌制作の観点でいうと、内容に批評的視点を持たせるのであれば、異なるゲーム同士を比べる必要もあるので、一通りのタイトルをプレイするという側面もありますね。

荒木 そうですね。ただゲーム同士を比較して、どちらかのタイトルを貶めるみたいなことは考えないように意識していました。それでも当時は若気の至りで強い批評性で文章を書いてしまうこともありましたが。

―― 当時はまだ全体のタイトル数もそれほど多くなかったから、ほとんどのゲームに触れやすかったというのもありますね。

荒木 そう思います。

(Vol.2に続く)

次回は、荒木さんが札幌南無児村青年団の代表として制作に携わる同人誌「おーるらうんど」創刊の経緯についてのお話となります。ご期待ください。

本インタビューは、インタビュー時から約40年前のお話を荒木さんにお聞きしました。そのため荒木さんご自身の記憶にどうしても曖昧なところが一部あるうえでのお話となっています。その曖昧な部分を可能な範囲で補完するための事実確認にあたって、下記の皆様にご協力をいただきました。こちらにお名前を紹介させていただき、お礼を申し上げます。(氏名五十音順、敬称略)

 荒木純子
 見城こうじ
 雑識童子
 中川 剛
 ヒパイスト
 本野善次郎

YouTube・ゲーメストチャンネルで配信されております『アンドキュメンテッド・ゲーメスト / ステージ013ゾーン1~6』の中で、荒木さんが手掛けられた同人誌について取り上げられています。

動画内で雑識童子様、瑞原螢様が発言されている内容をインタビュー内に一部反映させていただいております。

「雑誌・攻略本・同人誌 ゲームの本展」、「小樽・札幌ゲーセン物語展ミニ」の中で荒木さんが制作に携わった同人誌を展示した経緯から、市立小樽文学館にて2023年8月末から荒木さんの追悼展を開催する予定です。詳細が決まり次第、改めてお伝えします。

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