北海道ゲーマーズ・オーラルヒストリー
目次
第二回・中川 剛さん(元ハイスコアラー)Vol.3
「小樽・札幌ゲーセン物語展」、「雑誌・攻略本・同人誌ゲームの本展」の企画を通して知り合った北海道在住のゲーマーの皆さんにお話を伺う企画、その第二回目をお送りします。
ゲームはプレイヤーがいてこそ成立するものであり、そしてゲームの遊ばれかたが時代によって大きく変化しているのなら「プレイヤーの記録」も重要なのではないかという視点からインタビューを行います。
今回は、1983年の開店間もない頃からプレイシティキャロット琴似店の常連プレイヤーであり、最初期の頃からゲーム雑誌にハイスコアが何度も掲載されたことがある中川 剛さんにお話を伺いました。
ビデオゲーム黎明期におけるゲーム攻略、ゲームセンターのコミュニティ、ゲームイベントなど、どれも今となっては貴重となる話題ばかりとなっています。
第二回・中川 剛さん(元ハイスコアラー)Vol.1は、こちら。
第二回・中川 剛さん(元ハイスコアラー)Vol.2は、こちら。
中川さんが参加したはじめてのサークル「AMM」
―― 87年から「AMM」というサークルが活動を始めています。
中川 「アミューズメント・マニア・メイズ」の頭文字ですね。ここからわたしも「AMM」というコミュニティに入ってスコアラー活動をしていくことになります。 先ほどから名前が出ているつきだてと、えびなという二人で「プレイシティキャロット琴似店」(以下、琴似キャロット)を拠点にした「AMM」というサークルを作るんです。えびなもスコアラーでベーマガに名前が載ったことがあります。彼は『サンダーセプター』(ナムコ/1986年)をよくやっていたのかな。創設時はえびなが会長で、副会長がつきだてでした。えびなは途中で会長を辞めるのですけど。
―― この二人でサークルが始まった。
中川 会員を増やしていく過程で、わたしに「サークルに入らない?」という話が直接あって、わたしも悪くないなと思いサークルに入ることになります。
―― 中川さんがサークルに入ったとき、メンバーは何人くらいいたのですか?
中川 5~6人だったと思います。「AMM」は基本、ハイスコアを目指すプレイヤーだけで集まっていました。だから他のプレイヤーからサークルに入りたいと要望があるより、サークル側からハイスコア獲得に熱意のあるプレイヤーをスカウトすることが多かったです。スカウトするのは主につきだてでした。わたしに声をかけたのもつきだてです。
―― つきだてさんは当初、小樽が拠点のサークルである「HYPER」を付けた名前で雑誌に掲載されていましたが、「AMM」結成後は「AMM」を名前に付けるようになったのですか?
中川 そうですね。「AMM」を付けることが多くなっていきます。ただ彼は名前を統一せずに、何種類かのパターンを使い分けていました。
―― 「AMM」は会報や同人誌のようなものを作っていたのですか?
中川 「AMM」の始めの頃は会報を作っていなかったんです。ハイスコアを出して、雑誌掲載を埋めていこうというだけの団体だった。
北海道各地からゲーマーが集まるイベント「北海道ゲームの日」
―― 道内のプレイヤーが集まるイベント「北海道ゲームの日」について、お話を伺いたいと思います。
中川 恵庭市に「コミュニティスペースNTK」(以下、NTK)というゲーセンがあって、そこで「北海道ゲームの日」というイベントが毎月最終日曜日に行われていました。そこに道内のプレイヤーが交流会も兼ねて集まっていました。
―― これは87年に始まったのですか?
中川 87年8月くらいからですね。
―― 資料では、NTKもハイスコア集計で「マイコンBASICマガジン」(以下ベーマガ)やゲーメストに掲載されていて、そこに中川さんの名前が載っているときがありますけど、それは「北海道ゲームの日」のイベントのときに出したものなんですか?
中川 そうです。
―― ということは、中川さんはNTKには基本的に「ゲームの日」のときだけに行っていたのでしょうか?
中川 そうですね。
―― 以前、「ゲームの日」について少し話を伺いましたが、合宿というか1泊するイベントなんですよね。
中川 そうです。毎月最終の土日にかけて行われていました。イベント自体の告知がベーマガに載ったんですね。それで道内の各サークルが集まることになります。イベントの最後に記念写真を撮ったりもしていましたね。これが2年くらい続いたのかな。1989年7月30日で24回目ですね。87年の8月に始まったから、ちょうど2年。
―― けっこう続いていたのですね。
中川 1989年の12月には「北海道ゲームの日」はなくなっているんですよ。NTKが違う場所にお店を移動するという話になって、そこでイベントも自然消滅した感じです。
―― この「北海道ゲームの日」は、そもそもどういう経緯で始まったのですか?
中川 当時、NTKの店長だった石井健司さんというかたがいました。石井さんが「北海道のプレイヤーが集まって、みんなでワイワイとゲームできたらいいね」という考えを元々持っていたんです。わたしが遠征でNTKに行ったときに、この話を聞かせてくれたことがあります。その後、石井さんがその考えに基づいたイベントをやりたいということを道内のゲーセンに電話で投げかけたら、けっこう反響があったそうです。それで実際に始まることになりました。
―― 基本、何らかのサークルに入っている人たちが来るのですか?
中川 個人の人も来ましたよ。でもサークルに入っている人が多かったですね。主に集まっていたサークルは、まずわたしが入っていた琴似キャロット拠点の「AMM」。 それから札幌の「FPS」と「NGM」、室蘭の「AVG」、恵庭の「HIE」、苫小牧の「TOM」、小樽の「OAM」、帯広の「HEAVY ARMS」、旭川の「飛脚」と「WHIM」、函館の「NJP」、北見の「EXSEED」、美唄の「MoAi」といったところかな。道内各地から来ていました。
―― 広範囲から来ていたのですね。小樽の「HYPER」はいなかったのですか?
中川 いなかったですね。「HYPER」をスコアネームにつけるプレイヤーが激減して、小樽のサークルは「OAM」が多くなったのかと思います。
―― じゃあ、元「HYPER」の何人かは?
中川 道外の大学や就職等で引退したり、OAMに移動する人もいました。
―― どのサークルも各地に拠点のゲーセンがあるのですよね?
中川 あります。サークルの活動の仕方も様々で、例えばハイスコアを目指すことに特化したところもあれば、「OAM」や「FPS」といったサークルは会報も作っていました。会報の中にゲームの攻略法を書いていたんですね。わたしはあまりこういった会報制作には興味がなかったのですけど、関心のある人は作っていました。「FPS」は札幌の手稲区にあったゲーセン「ゲームポイントフリーウェイ手稲店」を拠点にしていたサークルです。手稲のフリーウェイはアイレムの直営だった気がします。札幌の「NGM」の拠点は西野ナムコランドですね。
「北海道ゲームの日」で注目を集めていた『スーパーハングオン』プレイヤー
―― 中川さんがお持ちの「OAM」が当時発行した会報を今回持ってきていただいています。拝見すると時期的に『ドラゴンクエストIII』(エニックス/1988年)が出ていた頃だから、ドラクエIII関連のイラストが描かれたりしていますね。前回インタビューした荒木さんが所属していた「札幌南無児村青年団」や「HAM」は攻略をせずにゲームの世界観を掘り下げるサークルでしたが、ここで集まっていたサークルは基本スコアラーとしてゲームを攻略している人たちだったのでしょうか?
中川 スコアラーが多かったです。そして、この「北海道ゲームの日」で重要だったプレイヤーとしてLAP-BMXERさんというかたがいました。『スーパーハングオン』(セガ/1987年)の全国1位だったかたです。このかたはイベントに来るたびに全一の最速タイムを出すんですよ。だからイベントの間に全一を出せるかというのが「北海道ゲームの日」で毎回注目されていました。
―― 来るたびにタイムを更新というのはすごいですね。
中川 そうなんです。出すタイムも速すぎて、全国の他のプレイヤーが抜けないレベルでした。だから会場のNTKに彼のプレイを見に来る人がいるくらいでした。
―― プレイヤー名に付いている「LAP」もやはりサークル名なんですよね?
中川 「LAP」は札幌・平岸のサークルですね。
―― このかたは『スーパーハングオン』が飛びぬけて上手いかただったのですね。
中川 もう敵わないですよ。わたしも『スーパーハングオン』をやっていましたけど、全然敵わないです。
―― 『スーパーハングオン』は4コースあります(*01)けど、4コースすべて上手いのですか?
中川 4コースともトップレベルで、特にエキスパートは一度も抜かれたことがないんじゃないかな。彼が出したタイム「8’31″61」は現在も抜かれていません。
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―― LAP-BMXERさんのプレイを見るためにNTKに来られる人がいたということですが、道外から来るかたもいたのでしょうか?
中川 はい。皆さん、「そのタイムは本当なのか」という疑問を持って来るんです。
―― 信じられないタイムなんですね。
中川 わたしはそこまでの最速タイムを彼が出す過程を見ているから、意外には感じなかったんです。彼は琴似キャロットでも『スーパーハングオン』をプレイしていたので、彼が成長していく姿を見ているんです。「このカーブはこう減速したら、速く抜けられるんだね」みたいな。だから、とんでもないタイムが出ても納得はできるんです。だけどその過程を知らない人がいきなり見たら、「何でこんなタイムが出るの?」という驚きが当然ながら最初に出てくるわけです。
―― 『スーパーハングオン』には、『アウトラン』(セガ/1986年)のギアガチャのような特殊テクニックはないですよね。
中川 何もないですね。純粋な通常プレイです。ターボボタンをうまく連射するみたいなのはあったかな。彼もそんなに背が高くなかったので、ライドオンタイプの筐体ではダメでしたね。
―― 筐体を動かす必要がなく、ハンドルだけで操作できるシットダウン筐体じゃないとダメだったということでしょうか?
中川 いや、彼は筐体を動かすタイプでコンパクトになったミニライドオンが得意でした。シットダウンは店にあまり置いてなかったのでやっていなかったと思います。『スーパーハングオン』のライドオンが上手い人は、だいたい背が高いんですよ。足も長くて。琴似キャロットや西野ナムコランドで全一のタイムを出した人は、そういう人でした。ライドオンは床に足が付けられないと操作が難しいんですね。
―― LAP-BMXERさんの年齢は、中川さんと同じくらいですか?
中川 いや、わたしより年下ですね。ちなみに彼は、BMXの大会の東日本チャンピオンだったんです。
―― あー、実際のBMXの。
中川 そう、自転車のBMXですね。BMXの大会が終わって、ゲーセンに来て『スーパーハングオン』をプレイするということもありました。
―― そうか、実際の二輪の経験がゲームにも活かされていたのですね。だから上手いんだ。
中川 彼が実際のBMXやママチャリで前輪を上げながらクルクル回るところを、彼の家で見せてもらったことがあります。
―― LAP-BMXERさんは、他のゲームもプレイしていたのですか?
中川 他のゲームもやっていましたけど、全一のタイムやスコアが雑誌に載るというのは『スーパーハングオン』だけでしたね。
―― でも、それだけ『スーパーハングオン』を極めていたということですよね。当時のそのプレイを見てみたかったです。
中川 同じく「北海道ゲームの日」に来ていたキャサ夫(*02)も認めているプレイヤーでしたね。毎月成長していく過程がすごかった。毎月、全一のタイムを更新していくのですからね。
―― それはギャラリーとして見ている側も盛り上がりますよね。
中川 行列ができるくらい周りにギャラリーが集まりました。
―― タイムを更新するときは、何回かチャレンジして最速タイムを出す感じなんですか? それとも一発で更新する?
中川 必ずというわけではないですけど、一発更新するときもありました。彼は本番に強かったと思います。
―― 中川さんもイベントの中で他のゲームのハイスコアを出すことはあったのですよね。
中川 そうですね。でもハイスコアを出すのは、琴似キャロットの方が多かったです。LAP-BMXERさんほどNTKで毎回更新とはいかなかった。
―― 「北海道ゲームの日」に参加されていた当時、中川さんは大学生だったと思いますが、イベントの参加者は同じ大学生が多かったのですか?
中川 大学生が特に多かったということでもないですね。それこそキャサ夫はこのとき中学3年生だったと思います。
―― この頃のキャサ夫さんは旭川に住んでいたのですよね?
中川 旭川ですね。
―― ということは、先ほど言われていた旭川のサークルに所属していた?
中川 「飛脚」ですね。「飛脚-ARIS」と名乗っていました。
―― 中川さんは、このイベントでキャサ夫さんにはじめて会ったのですか?
中川 そうです。このイベントで彼と仲良くなって、その後キャサ夫は琴似キャロットにも来るようになるんです。
『飛翔鮫』1億点チャレンジ
―― 「北海道ゲームの日」について、他に何かエピソードはありますか?
中川 「北海道ゲームの日」には他にもおもしろい企画があって、『飛翔鮫』(タイトー販売・東亜プラン制作/1987年)で1億点を目指しましょうという企画もありました。店長の石井さんが企画上手なかただったんですね。
―― 1億点を目指すとなるとかなり時間がかかりそうですが、「北海道ゲームの日」が土日の両日開催だから可能なんですね。
中川 「北海道ゲームの日」は土曜日から会場に入ることができて、夜は店内に泊ることもできました。タダではなく普通にお金を入れなければなりませんが、夜間もゲームは遊べたんですよ。
―― 深夜の時間は一般営業をしていないけど、イベント参加者は店内でゲームを遊んだり眠ったりできたということなんですね。
中川 そうなんです。先ほど話した『飛翔鮫』で1億点を出そうという企画はプレイ時間が長くなるから。
―― その深夜の時間を使って、夜通しやるのですね。
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中川 この企画は、たしか2人がかりで交代しながらプレイしていました。鮫仙人、OAM-MRXという2人のプレイヤーです。
―― OAMということは小樽のサークルのかたですね。
中川 でも、二人とも眠くなっちゃって、けっきょく途中で終了しました。
―― 1億点は出せずに?
中川 出せなかった。3000万点くらいで終わりました。もう睡魔に勝てなかった。
―― 3000万点を出すのに、どれくらいの時間がかかるのでしょう?
中川 けっこうかかりましたね。土曜日の昼ぐらいに来てずっとやって、12時間くらいかかったかな。
―― 半日ですか。『飛翔鮫』はどこかの周回で難易度は固定されるのですか?
中川 どこかの周で難易度は変わらなくなりますね。
―― だから3000万点や1億点を目指すというのは難易度が高くなって先に進めないというよりは、プレイヤーの体力が持つかどうかということなんですね。
中川 そういうことです。この1億点チャレンジは別な月にもう一回やったのですけど、そちらも参加メンバーが全員眠気に勝てず途中で終わりました。
―― メンバーは前回と同じお二人ですか?
中川 前回の鮫仙人、OAM-MRXにりょうざん連合というプレイヤーを加えた3人です。でも、この3人でもダメだった。
―― おもしろいですね。合宿ならではのエピソードです。
80年代末にハイスコアを目指していたゲーム
―― 琴似キャロットでの日常的なハイスコアの話題に戻ろうと思いますが、87年から88年に入っていくと『アフターバーナーII』(セガ/1987年)で中川さんの名前が雑誌に掲載されることが多くなっていきます。
中川 それはもう、いろいろ語りたいところではあります。
―― 『アフターバーナーII』は、スコアではなくヒット数での雑誌掲載なんですね。
中川 そうですね。敵を撃墜した数です。『アフターバーナーII』は、なかなか運に恵まれなくて、けっきょく全一を取れなかった。わたしが琴似でトップのヒット数を出しても、他の地域のプレイヤーがさらに高いヒット数を毎月出してしまう。本当に悲しい話で。
―― 『アフターバーナーII』で高いヒット数を出すには、基本的な理屈としては出てくる敵をすべて倒すという考えかたになるように思いますが。
中川 そういうことにはなりますね。
―― 実際にすべての敵を倒すことは可能なんですか?
中川 前半の方は理論的には倒せるのですが、なかなか難しいんですよね。あとちょっとで全一なのに抜けないということが頻繁にあって、それがいまだに悔やまれます。『アフターバーナーII』のヒット数攻略に当たっては、まず電源を切るんですよ。再び電源をオンにして背景が雪のステージになったときにお金を入れると、1面の最初の敵がまっすぐ飛んできて撃墜しやすくなります。これは必須ですね。あとは常にスピードをLow、一番遅くして敵の全滅を狙うというのが基本になります。でも、実際にはなかなか全滅できない。運もあったりするんですよ。
―― 『アフターバーナーII』の稼働し始めの頃はダブルクレイドル筐体(*03)しかなかった印象があります。
中川 そうですね。当時はダブルクレイドルでしかやったことがないです。
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―― この頃は、セガの体感ゲームの攻略が続いている感じですね。
中川 『アウトラン』から始まって、『スーパーハングオン』もやっていたし。今話した『アフターバーナーII』があって、その後に『パワードリフト』(セガ/1988年)もやっています。体感ゲームにハマっていた時期ですね。
―― 記録を見ると、この時期は他に『アサルト』(ナムコ/1988年)や『グラディウスII』(コナミ/1988年)でもスコアが掲載されています。『アサルト』の掲載は多いですね。
中川 実はわたし、『アサルト』で全国一位を取っているんですよ。
―― ほう、そうなんですね。スコア掲載は途中から改良版の『アサルトプラス』になっています。
中川 『アサルトプラス』でもわたしは全国一位を取っています。「AMM-今日も元気だ,学校さぼると!」という名前で掲載されました。
―― 自由なネーミングですね(笑)。
中川 このスコアはプレイシティキャロット小樽店(以下、小樽キャロット)で取っているんです。『アサルトプラス』の集計初月に取っていますね。元々『アサルト』のときに関東のライバルが一人いまして。SPREAM-REIさんというかたです。
―― 有名なかたですよね。
中川 そのかたが最後の方で『アサルト』の全国一位だったんですよ。このときのわたしは、あと5000点か10000点くらいの差でSPREAM-REIさんのスコアを抜けなかったんですよ。その後、『アサルトプラス』が出たときに、たまたま運も良かったと思うのですけど、あまりミスせずにクリアできたんです。『アサルトプラス』にはクリア時に残機ボーナスがあるので、初月に1位を取れたんですよ。だから、こんなふざけた名前にしなければよかったなといまだに後悔しています(笑)。この頃は小樽の大学に行きながら、ニシン卸しのバイトをしていたんですね。だから「今日も元気だ,ニシンが軽い」みたいな名前で雑誌に掲載されることもありました。
―― そういう名前にしたい時期だったのですね(笑)。
中川 ニシンのバイトを終えて、『アサルト』をやっていた時期ですね(笑)。
―― 小樽の大学へは琴似から通っていたのですか?
中川 いえ、小樽の下宿に住んでいました。
―― ということは、この時期は小樽キャロットが拠点になっているのですね。
中川 小樽に拠点が移動しています。
―― 大学に在学中、札幌に行ったら琴似キャロットにも行くことはあったのですか?
中川 はい。琴似の実家に行ったときに琴似キャロットにも寄っていましたが、たまにという感じでした。だからスコア掲載は、基本的に小樽キャロットのものを載せていた時期です。
―― 89年に移りますが、この年は『パワードリフト』での掲載が多いです。
中川 そうですね。『パワードリフト』は小樽キャロットでよくプレイしていました。
―― 『パワードリフト』は当時わたしもよくプレイしていましたけど、速いタイムは意識せず普通に完走することを目指していました。このゲームもタイムアタックの基本は、純粋に速く走るということになるのでしょうか?
中川 単純に速く走るというのもあるのですけど、ギアガチャとまでは行きませんが一瞬ギアをローにして減速するという必須のテクニックはありました。
琴似キャロットで人気を博した実況付き『ファイナルラップ』
―― 『アウトラン』からずっとレースゲームにハマっている印象が強いですが、他にハマっていたレースゲームはありますか?
中川 ナムコの『ファイナルラップ』(ナムコ/1987年)ですね。こちらは主に対戦です。琴似キャロットで実況付きの8人対戦をやっていました。対戦するお客さんを呼び込むために、店員から「サクラ」になってと頼まれたりもして。琴似キャロットでは行列ができるくらい『ファイナルラップ』の対戦が盛況でしたね。その後の『ダートフォックス』(ナムコ/1989年)や『ファイナルラップ2』(ナムコ/1990年)もやっていました。
―― ナムコのレースゲームも遊んでいたのですね。『ターボアウトラン』(セガ/1989年)以降のセガのレースゲームでは遊ばなかったのですか?
中川 『ターボアウトラン』は少しやったのですけど、『アウトラン』と少しプレイ感覚が違うことに馴染めずほとんどプレイしていません。そういう意味では『アフターバーナーII』の系列の『G-LOC』(セガ/1990年)もプレイ感が違うのでやっていないんですよ。
―― だとするとセガのレースゲームでハマったのは、『パワードリフト』が最後ですか?
中川 そうですね。そこで終了という感じです。ただ、後にキャサ夫が札幌に来たときに『デイトナUSA』(セガ/1993年)の攻略を教えてもらうことがあって、そこでデイトナはプレイしました。
―― ナムコの『リッジレーサー』(ナムコ/1993年)は?
中川 『リッジレーサー』は全然やっていないです。『リッジレーサー』はいつ稼働したゲームでしたっけ?
―― 93年ですね。
中川 93~94年は、それまでと比べてあまりゲームをしなくなった時期なんです。
―― 先ほど話題に挙がった『ファイナルラップ』について、実況付きの対戦が琴似キャロットで人気だったということで、こちらについてお話を伺いたいと思います。『ファイナルラップ』1作目の稼働開始が87年ですが、この頃の中川さんは小樽にお住まいだったわけですよね。たまに琴似に行ったときに、その人気を目の当たりにしたということでしょうか?
中川 そうです。もう行列になっているほどでした。みんなで対戦やりましょうという雰囲気で盛り上がっていましたね。
―― 『ファイナルラップ』の対戦は8人が最大ですが、琴似キャロットは最初から8人対戦ができたのですか?
中川 最初は4人で、途中から8人になった記憶があります。とにかく琴似の行列は凄かった。琴似の『ファイナルラップ』人気は尋常じゃなかったです。ナムコ直営店の東日本でのインカムが№1だったという話も聞きました。
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―― インタビューに先立って少し話を聞いたときは、琴似キャロットの2階に居酒屋があって居酒屋帰りのサラリーマンが『ファイナルラップ』の対戦によく来ていたということでした。
中川 そうそう、サラリーマンが多かった。サラリーマンは仕事が終わった夜に来るわけですけど、夕方は夕方で多くの学生が『ファイナルラップ』をプレイしていました。
―― 『ファイナルラップ』は対戦レースゲームの先駆けですから、レースゲームでの同時対戦がまず新鮮でしたよね。だから人気になるというのはよくわかります。
中川 すごくおもしろかったですね。しかも実況が付くわけですから、それは盛り上がります。
―― 琴似キャロットでは店員さんが実況していたのですよね?
中川 そうです。さっき話したとおり、お客さんを呼び込むためや対戦人数が少ないときの穴埋めとして「サクラ」的にわたしがプレイすることがありました。そのときは「サクラ」であることを認識するために赤く塗った100円を店から渡されて使っていました。売り上げを集計するにあたって純粋なお客さんと区別するためですね。
―― 人数が多いほうが盛り上がるから、良い意味での「サクラ」だったわけですね。
中川 実況をするときは、できるだけ8人対戦になるようにしていたのだと思います。本当に売り上げが尋常じゃなかったです。8人フル対戦なら1プレイで800円入るわけですからね。
―― しかもレースゲームだから、コースを完走してもプレイ時間はそれほど長くならない。
中川 そうそう。2分とか3分くらいですよね。それで1回あたり800円がポンポン入ってくるわけです。儲かったと思いますよ。
―― 先ほどのサラリーマンの件もそうですが、琴似の環境も良かったのでしょうね。87年というとわたしは苫小牧に住んでいて、ゲーセンに『ファイナルラップ』も置いていましたけど、デパートやスーパーのゲームコーナーで環境的にそんなにサラリーマンが来るところじゃないから、行列ができるほど客が来ることはなかった。環境が揃えば、大盛況になるのですね。
中川 そうなんですよ。
―― 中川さんは「サクラ」として『ファイナルラップ』の対戦をすることがあったということですが、それでも基本は真剣勝負なんですよね?
中川 真剣勝負ですよ。接待プレイはしないです。ぐでんぐでんの酔っ払いの人がいたら、配慮することはありましたけど(笑)。
―― 逆に言えば、真剣勝負をすることが本当の意味での接待とも言えますね。
中川 酔っ払いと一緒にレースゲームを遊ぶというのは、なかなかない構図でした。『ファイナルラップ』は内容がわかりやすいので、誰でも遊べるゲームだったというのは強いですよね。その頃って内容的に一般人が入りづらいゲームが多かった。『ファイナルラップ』は一般人がどんどんプレイするゲームでしたね。サラリーマンも学生も一緒に混ざって遊んでいた。しかも実況があるから外側で見ているギャラリーも楽しいんですよ。
―― 実況の声は店の外まで聞こえていたのですか?
中川 さすがに外までは聞こえていなかったですね。
―― でも店内に入れば聞こえるわけですね。
中川 目立ちます。他の目的で来た客も「なんだなんだ?」と『ファイナルラップ』のほうに注目する。
―― 人だかりにもなっているから、さらに目立つわけですね。でも、そこまでレースゲームで盛り上がったのは『ファイナルラップ』くらいなんでしょうかね? その後の対戦型レースゲームで、そのレベルで盛り上がったというのはあまり聞いたことがない気がします。
中川 たぶん、なかったと思います。
―― 対戦型レースゲームの存在に、みんな慣れてしまったというのもあるかもしれませんね。
中川 わたしの経験で、ギャラリーがすごく付くくらい盛り上がったゲームっていくつかしかなくて。『ファイナルラップ』の他に『テトリス』(セガ/1988年)。それから『ストリートファイターII’ TURBO』(カプコン/1992年)の対戦。あとは『バーチャファイター2』(セガ/1994年)ですよね。これらのゲームは、ものすごい数のギャラリーが付いていました。
―― 他のゲームと比べて、突出していたのですね。
中川 例えば、先ほど話したLAP-BMXERさんのように『スーパーハングオン』がものすごく上手いプレイヤーがイベントに来て、ゲーマーのギャラリーが多かったということはあります。でも『ファイナルラップ』は一般人もいて、プレイが下手でもギャラリーができていたので、独特な盛り上がりでしたよね。
―― 勝っても負けてもおもしろいという感じですものね。
中川 『ファイナルラップ』は順位が遅い人ほど最高速度が上がるというのが、盛り上がる要素でした。
―― 極端な周回遅れにならないわけですね。
中川 後ろの人でも付いていけるので、常に接戦になりやすい。
―― そこはナムコの調整が上手かったのですね。わたしもその現場にいたかった。ちなみに実況をやる店員さんは決まっていたのですか?
中川 2人いましたね。基本1人の店員さんなんですけど、たまにもう1人の店員さんが実況をやることもあった。この2人だけですね。私が見ている限りでは、店長は実況をやらなかった。喋りのスキルが必要なので、誰でもできるものではなかったのでしょうね。マイクを使ったときに声が通りやすいかどうかというのもあったでしょうし。
―― そういった実況が、後の格闘ゲームブームのときに、より広まっていくわけですね。
中川 そこでゲーセンでの実況が確立されることになります。
―― きちんと確認しないとわかりませんが、すべてのビデオゲームの中で『ファイナルラップ』がゲーム実況の走りになるのかもしれませんね。
中川 そうかもしれませんね。それ以前のゲームで実況したというのは聞いたことがないです。
―― 現在のように個人がネットで発信できる時代ではゲーム実況も当たり前のものになっていますが、当時はそういう文化はまだなかった。
中川 うん、『ファイナルラップ』が最初だと思います。
中川さんから見た北海道の有名プレイヤー
―― ここでまた、中川さんから見た道内の有名プレイヤーのお話を伺いたいと思います。
中川 まず紹介したいのが、琴似キャロットでハイスコアを出していた弥佐繁晴さん。『チャイニーズヒーロー』(タイトー販売・カルチャーブレーン制作/1984年)で全国1位を取っているかたです。いろんなタイトルでスコア掲載されていました。この人が、わたしの最初のライバルでした。『ドンキーコング3』(任天堂/1983年)や『エキサイティングサッカー』(アルファ電子/1983年)、先に挙げた『チャイニーズヒーロー』、他に『ハングオン』(セガ/1985年)で全国1位を取っています。『戦場の狼』(カプコン/1985年)や『マーブルマッドネス』(アタリゲームズ/1984年)でも彼はスコア掲載されています。
―― このかたも琴似キャロットの常連さんなんですね。
中川 そうです。1983年から86年くらいまでいたのかな。最初に会ったときは中学生でした。琴似キャロットでは、『スターウォーズ』(アタリ/1983年)の攻略を彼から教えてもらいました
―― アタリのベクタースキャンのやつですね。
中川 そうです。それでスコアを3000万点くらいまで出したはず。彼とは攻略の情報共有をしていました。お互いに情報を教え合いしながら、一緒にハイスコアを目指していました。
―― 『ドルアーガの塔』(ナムコ/1984年)のときもそうでしたけど、琴似キャロットではすべてを自力で攻略するのではなく、上手いプレイヤー同士で攻略情報を共有して共に上達していくのが基本だったのですね。
中川 そうですね。そういうパターンが多かったです。わたしの認識では、弥佐さんが初期の琴似キャロットのスコアラーの第一人者になります。
―― 最初に会ったときに中学生だったということは、中川さんより年下なんですね。
中川 そうです。わたしと一緒に年上の人に可愛がってもらっていた感じです。当時の大学生やサラリーマンだったかたに、わたしと弥佐さんは気にかけてもらっていましたね。
―― 続いてのかたをお伺いします。
中川 次の有名プレイヤーは何度も話題に出ているつきだてです。彼はスコアが掲載された数が多いし、活動範囲も広くて、札幌や小樽の様々なゲーセンでスコアを出していた。彼は途中でキャロットの店員になるんですよ。
―― 琴似ですか?
中川 いや、赤い風車と川沿キャロットと澄川キャロット。複数の店員を掛け持ちしていました。それぞれをシフトで回していたんですね。彼は赤い風車の2階に住んでいたんです。
―― 従業員が店に住み込みできたのですね。
中川 そうです。そこで集まってゲームの話をするなんてことがありましたね。赤い風車の2階はわたしも泊ったことがあります。毎日ゲーセンに行く人にとっては、すごくいい環境だなと思いました。
―― つきだてさんは「HYPER」や「AMM」というサークルに入っていましたが、先ほどの弥佐さんはどこかのサークルに入っていたのですか?
中川 入っていなかったですね。サークルがいろいろできる時期には、もうプレイヤーとしていなかったんです。「HYPER」は早い時期にできましたけど、つきだてと違って弥佐さんは入らなかった。わたしも「HYPER」ができた頃にはそこに入らなかったので、そういう意味ではわたしと同じですね。
―― つきだてさんは今回のインタビューで何度もお名前が出てくるので、中川さんとしても印象に残っているプレイヤーのお一人なのだと感じます。
中川 つきだてはいろいろなゲーセンでハイスコアを出して雑誌に掲載されるわけですけど、琴似キャロットではわたしが彼より常に高いスコアを出して、やつのスコアは掲載させないという思いでプレイしていました。琴似では絶対やつにハイスコアを出させないぞみたいな。
―― 中川さんが防衛していたと。
中川 逆に『ディグダグII』(ナムコ/1985年)では、彼に先に100万点を出されて、わたしではもうどうしようもないなということもありました。
―― まさにライバルですね。
中川 次のプレイヤーが、OAM-MRXさん。OAMというサークルの人ですね。
―― OAMも先ほど話題があった「北海道ゲームの日」に来ていたサークルでしたよね。
中川 小樽で最初にできた「HYPER」の次に出てきたサークルという位置付けですかね。OAM-MRXさんは『テラフォース』(日本物産/1987年)、『バトルフィールド』(SNK販売・ADK制作/1987年)でスコアが掲載されています。OAM-MRXさんは小樽キャロットの常連で、今でも交流があるのですけどシューティングゲームがすごく得意なかたです。あとはベルトスクロールアクションも上手かったです。『ファイナルファイト』(カプコン/1989年)や『キャプテンコマンドー』(カプコン/1991年)といった辺りですね。『キャプテンコマンドー』はわたしと彼とでかなり一緒にやっていた記憶があります。それと『飛翔鮫』の1億点プレイにチャレンジしたプレイヤーでもあります。
―― 先ほど話題に挙がった恵庭のコミュニティスペースNTKで開催された「北海道ゲームの日」の企画ですね。
中川 OAM-MRXさんはガチのシューターですね。『ASO』(SNK/1985年)や『究極タイガー』(タイトー販売・東亜プラン制作/1987年)、『サンダークロス』(コナミ/1988年)が上手かったですね。弾の避けかたが上手い。シューティング能力がある人でした。
―― 今も交流があるということでしたが。
中川 GAMERSBAR lettuce702で行われている月一のレトロゲームイベントに来ることがありますね。でも今はあまりゲームはやっていないみたいです。
―― 続いてのかたは?
中川 続いてはOAM-MRXさんと連れ添っていた人で、鮫仙人さん。
―― 『飛翔鮫』1億点にチャレンジした、もう一人のプレイヤーですね。
中川 この人は知る人ぞ知るという感じで有名でした。
―― 資料を拝見すると北見のかたなんですね。1億点チャレンジに参加するくらいだから、『飛翔鮫』が上手かった。
中川 この人は『飛翔鮫』を極めていましたね。
―― それで鮫仙人と名乗っていたのですね。
中川 でも自分から名乗ったのではなくて、他の誰かが名付けたんです。
―― 客観的に見ても、すごいプレイヤーだったのですね。
中川 次に紹介するのは、NGM-師匠さん。『ウイニングラン』(ナムコ/1989年)で名を馳せた人です。
―― ナムコのポリゴン・レースゲームですね。
中川 壁ターンというテクニックを駆使する人で「壁ターン師匠」とも言われていました。壁ターンをさせたら彼にかなう者はいなかった。『ファイナルラップ』などレースゲームを好んでよくプレイしていました。一方でシューティングゲームではハイスコアが取れなかった。連射も苦手だったので、スコアで1位を取ることが出来なかったんですよ。ただ連射装置が筐体に付くようになるとシューティングも対応できるようになってきました。元々、避けるのは上手かったんです。『エアーデュエル』(アイレム/1990年)で全一を取っていたと聞いています。彼が所属していた「NGM」は西野ナムコランドを拠点にしたサークルでした。師匠は途中でサークル名を変えていましたが。
―― 次のかたをお願いします。
中川 先ほどお話した『スーパーハングオン』(セガ/1987年)のLAP-BMXERさん。このかたの詳細は、先ほどお話したとおりです。それから90年代に入ると、BREMというハイスコア集団が出てきます。
―― 新たなプレイヤーたちが出てきたと。
中川 琴似キャロットと「札幌そごうゲームスポット」を拠点にしていたサークルです。ここはガチなサークルだったので、ハイスコアを取るための情報は身内だけで共有していました。主なメンバーが5人いて、全一も取っています。
―― BREMが「札幌そごうゲームスポット」を拠点にして90年代に活動ということは、前回インタビューした荒木さんが所属していて同じ「札幌そごうゲームスポット」が拠点だった「HAM」が87年解散ですから、その後入れ替わった感じですね。
中川 そうなりますね。
―― 先ほどから話題に出ているキャサ夫さんについては?
中川 キャサ夫と出会ったのは89年です。最初は旭川のサークル「飛脚」に所属していて「飛脚-ARIS」と名乗っていました。その頃は中学生でしたね。先ほど話した恵庭のNTKのイベント「北海道ゲームの日」で知り合った後、遠征で琴似キャロットに来てそのまま札幌に居ついたんですよ。
―― キャサ夫さんは後に『バーチャファイター』の鉄人として有名になります。
中川 今でこそ『バーチャファイター』(セガ/1993年)の人ですけど、元々はシューターなんですよ。他にレースゲームも上手かった。何でも上手いという印象がありましたね。彼は『ストリートファイターII’』(カプコン/1992年)の北海道代表として全国大会に行っています。そのときに彼が使っていたキャラはブランカです。
―― そうなんですね。
中川 わたしは最初の『ストリートファイターII』(カプコン/1991年)のCPU戦のスコアアタックのときからブランカを使っていたんです。それでブランカを使うのが上手かったキャサ夫から使いかたを教わりました。
―― キャサ夫さんはストIIの頃から格ゲーを極めていたんですね。
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中川 ストII’については、わたしとキャサ夫とで100回対戦というのをやったんですよ。そのときはわたしがブランカを使って、彼はサガットやベガ、他にリュウやケンを使うこともありましたね。
―― 百人組み手ではなく、同じプレイヤーで100回対戦するということですか?
中川 そうです。ゲーマーの友人の自宅にストII’の基板があったんです。そこに集まってプレイしました。他のプレイヤーも集まって、キャサ夫の全国大会参加のための練習もそこでやりました。でも誰もキャサ夫に勝てなかった。
―― ダッシュのブランカは、どれくらいの強さだったのですか?
中川 キャラ全体の中では強くもないけど弱くもないという位置付けですかね。
―― 使う人によっては強いという感じになりますか。
中川 だからキャサ夫が使うブランカは、めちゃくちゃ強かった。恵庭のNTKでキャサ夫がブランカで対戦したときに、相手のベガと戦って勝つんです。
―― 使用禁止が出るくらいの強さだったダッシュのベガに勝つというのはすごいですね。
中川 相手のベガが出してくるサイコクラッシャーアタックに対するキャサ夫の反応が早くて、ブランカの立ち小キックでベガをぺちっと落とすんですよ。けっきょく相手側は何もできないみたいな状況になる。
―― 後の「バーチャの鉄人」に繋がっていくことを予感させるエピソードですね。
中川 最初はバーチャも弱かったんですけど、あっという間に強くなっちゃって。彼とはそれぞれの家族共々仲良くさせていただいて。お互いの結婚式にも出ています。
―― キャサ夫さんは元々シューティングが上手いから、まず動体視力が良いということなんでしょうか?
中川 そうかもしれませんね。彼の『雷電』(セイブ開発/1990年)のプレイを見たときは凄いなと思いました。当時、わたしたちの周りでは『雷電』が上手い人はそんなにいなかったのですけど、彼の『雷電』のプレイは人に見せる価値があるくらいのものでした。『雷電』の攻略はパターンじゃないんですよ。アドリブが必要な部分があって、それに対応できる彼のシューティング能力はとても敵わないものだった。
―― キャサ夫さんはバーチャの鉄人になったことで全国的にかなり有名になりましたけど、そのキャサ夫さんが中学生の頃からお知り合いというのは貴重なお話ですね。
中川 そうかもしれませんね。
90年代、アーケードゲームの変化
―― 90年代に入ってからの、中川さんが出したハイスコアについてお聞きします。
中川 1991年に『ストリートファイターII』が出ました。稼働した当初は対戦がメインではなくて、それまでのアーケードゲームと同じくスコアアタックを目的でやっていました。
―― 1人用のCPU戦ですね。
中川 はい。CPU戦のスコアアタックは94年くらいになるとやらなくなってくるのですけど、この資料を見ると93年9月頃はまだやっているんですよ。このときは琴似キャロットで出したわたしのスコアが「ちょ」という名前で掲載されています。
―― 「ちょ」という名前の由来は?
中川 わたしの下の名前が「つよし」なので、そこからですね。外国人と会う機会があって、そのときに下の名前の「つよし」を「ちょっし」と呼ばれたことがあるんです。そのとき通っていた学校の人たちにその話をしたら、それを少し変形させてわたしのことを「ちょ」と言うようになって、そこから取っています。
―― 学生時代のエピソードからなんですね。
中川 当時は他のゲーセンで出したスコアが載ることがありましたけど、そのときそのときで「つよぴ」とか「つよび」といった感じで使い分けていました。
―― 資料では中川さんが出した『ワールドヒーローズ2』(ADK/1993年)のスコアが雑誌に掲載されています。
中川 『餓狼伝説スペシャル』(SNK/1993年)や『サムライスピリッツ』(SNK/1993年)など、当時稼働していた格ゲーは、だいたいやっていました。『大江戸ファイト』(カネコ/1994年)もやっていますね。
―― 先ほど言われたベーマガ93年9月号の資料を拝見すると、琴似キャロット分で掲載されているスコアが中川さんが出した『ワールドヒーローズ2』の各キャラのハイスコアで占められています。他のタイトルがなくワーヒー2のみの掲載ですが、こういうこともあるんですね。
中川 この頃からハイスコアの人気がなくなってきているんですよ。スコア申請する人も少なくなっている時期です。
―― そういう時期に入っていたのですね。
中川 94年くらいになると、わたしに関してはハドソンに入社しているというのもあるし、また格闘ゲームの対戦がメインになってきたということもあり、スコア目当てで琴似キャロットにあまり行かなくなっていました。このとき琴似キャロットに置いてあった格ゲーが1プレイ100円だったのに対して、同じ琴似にあったアルゴスというゲーセンが1プレイ50円だったので、格ゲー目当てのプレイヤーがみんなアルゴスに移動していたというのもあります。それで琴似キャロットをあまり利用しなくなった。
―― 1プレイの料金は、けっこう大きな理由ですね。中川さんはハドソンに就職するまでコンシューマーゲームにほとんど触れることはなかったと、以前聞きました。
中川 スコアラー仲間の家で軽く遊ばせてもらうくらいで、ファミコンやスーファミは持ってなかったです。『スターソルジャー』(ハドソン/1986年)などのシューティングもやりませんでした。ハドソンに入って、はじめて触った感じです。
―― 中川さんがハドソンで働き始めるのはいつなんですか?
中川 1993年ですね。格闘ゲームを上手い人がいないか探していたようで、琴似キャロットでハドソンにスカウトされたんです。その頃、ハドソンで『餓狼伝説スペシャル』と『ワールドヒーローズ2』をPCエンジンで出す予定がありました。
―― アーケードカードを使った移植版ですね。
中川 移植にあたってのいろいろな確認のために、上手いプレイヤーが必要だった。それで友人の伝手でわたしに話が来たのです。他の琴似の常連もそのときにハドソンに入りました。
―― アーケードゲームの話に戻すと、90年代中盤からハイスコアを目指すものから格闘ゲームでの対戦にプレイヤーの主な目的は変わっていきます。そういった変化の影響は、中川さん自身にもあったのでしょうか?
中川 わたしも格闘ゲームを遊びましたが、ゲーセンには行かずに会社の仲間とぼちぼちやる感じになっていました。この時期からアーケードゲームをやらなくなっていますね。琴似から引っ越しをしたので、家が琴似キャロットの近くではなくなりました。引っ越し先の近くにもゲーセンがなかったので、会社の帰りに近くのゲームスタジオF1平岸店か、ちょっと遠いですけどスガイビルまで行って格闘ゲームをやるという感じで、ハイスコアを目指すことはやらなくなっていきました。
―― 格ゲーブームという時代の変化がある中、中川さん自身の事情として引っ越しをしたことで琴似キャロットに気軽に行ける環境ではなくなっていたのですね。
2020年代、かつてのゲーマーたちの交流
―― 今回のインタビューはGAMERSBAR lettuce702の店内をお借りして行っていますが、中川さんは最近こちらによく来られているそうですね。
中川 2年くらい前に今の会社で、札幌市内にゲームが遊べるレタスというバーがあるという話になりました。同じ職場にゲームプラザヴィクトリアの元店長がいるので、彼と二人で飛び込みで行ってみたのです。それがきっかけでここに来るようになりました。佐藤店長や常連さんがスコアラー時代のわたしを知っているということで、話も通じやすかった。
―― 琴似キャロットに通っていた頃の中川さんをご存知のかたがいたのですね。
中川 最近、アーケードアーカイブスなどで昔のアーケードゲームが復刻されているので、ちょっとリハビリをしてみようかなと思っていたのですが、こちらのレタスの店内はジョイスティックが揃っているので、家じゃなくこちらでプレイしてもいいなと思いました。それからT3というサークルのメンバーであるATSさんやTBCさんがよく店に来るので、そこで彼らといろいろ話をしやすいというのもあります。それから今日、話題に挙げたOAM-MRXさんやNGM-師匠もたまに来るんですよ。だから、ここは昔のゲーム仲間が集まりやすい良い場所だなと思います。
―― T3はどういったサークルだったのですか?
中川 T3は東京の三軒茶屋にあったハイスコアサークルです。三軒茶屋なんですけど、なぜか北海道の人でT3を名乗っている人がけっこういるんです。
―― 今は北海道だけど、以前は三軒茶屋にいたということでもなく?
中川 そうではないですね。一応、三軒茶屋の人に許可を得て名乗っているみたいです。
―― それはT3というサークルに思い入れのある人が北海道にいるということなんですか?
中川 思い入れというよりも、札幌のスコアラーがT3発足メンバーの従妹だった。そしてその従妹が加入して東京札幌間で交流してドンドン仲間を増やした感じのようです。
―― 北海道で出したスコアだけど、申請のときにT3を名前に付けていたということなんですね。ここ最近は、先ほど話にあったアーケードアーカイブスを含めて、中川さんやわたしが若い頃にプレイしていたアーケードゲームの復刻が続いていますね。復刻ブームと言えるくらいの勢いもあります。
中川 けっこう注目を集めていますよね。
―― アーケードアーカイブスは2014年から始まっていますし、もっと遡ればプレイステーションやセガサターンが出た90年代中盤から移植度の高いアーケードゲームが家で遊べる環境にありました。ただ、ここ最近はビデオゲームが40年くらいの歴史を重ねたということもあり、80年代のゲームの懐かしさの度合いが以前より高まっているように感じます。
中川 そうですね。また、それだけ時が経つと年齢的な衰えも出てきます。今のアケアカは中断セーブや連射機能が付いているのでリハビリをやりやすい。だから続けられるというのはありますね。昔の形の基板と筐体で今プレイしても年齢的に対応できなくなってきていて、練習やリハビリの継続にならないというのは正直あります。
80年代だから成立したコミュニティとしてのゲームセンター
―― いろいろお話を伺って、80年代のビデオゲームは出始めのものだから、作るほうも遊ぶほうも独特な熱量でゲームに向き合っていた気がします。それはわたし自身、当時を経験した身として感じることでもあります。
中川 チャレンジしていた時代ですよね。メーカーもチャレンジしていた。だから正直、あの頃はクソゲーも多いですよ。「どうするの、こんなゲーム」みたいなものも、けっこうあった時代だったのでね。そういった中でも名作もあって
―― そうですね。
中川 そういったチャレンジ精神を元に作られたゲームは90年代に入ると少なくなっていく。
―― たしかに路線が確立されていって、同じタイプのゲームが増える印象は強いですね。
中川 今だと「アクション」というジャンルで括られるものでも、80年代の中期までは遊びかたが違うものが多かった。路線が確立されていないから、そういう意味でおもしろいゲームがいっぱいあったんです。
―― アクションとかシューティングというジャンルで括らずに、個別のタイトルでそれぞれのゲームを認識していた頃ですよね。だからドルアーガみたいな奇抜なゲームでも、まずは遊んでみようと思えた。
中川 コミュニケーションという観点ではゲーセンの存在はやっぱり大きかったですね。ゲーセンに行くと友だちがいる。その友だちもいろいろあって、スコアラーの友だち、コミニケーションノートに書く友だち、サークルを作って会報の絵を描く友だちといった感じで多彩でした。そういった広がりがけっこうありましたよね。
―― インターネットがない時代だから、そこに行かなきゃ会えない友だちですものね。当時はそれが当たり前でしたが。
中川 学校にも友だちがいましたけど、学校とは違う同じ趣味の友だちですよね。
―― ゲーセンは不思議な場所でしたよね。直接話したことはないのだけど、そのゲーセンに行けばいつもいる人なので顔は知っているというプレイヤーは何人かいました。向こうもわたしのことをそう思っていたと思います。
中川 今日いろいろ話したとおり、ゲーセンで知り合った人は多かったです。改めてゲーセンはおもしろい場所だったと思います。
―― 貴重なお話をたくさん伺うことができました。ありがとうございました。
インタビュー場所:GAMERSBAR lettuce702
北海道札幌市中央区南6条西3丁目第8桂和ビル4階
X(旧Twitter):https://twitter.com/gblettuce702
TEL:090-9757-1646
本インタビューに当たり、TYR-YETI氏のブログ「小人閑居して不善を為す chapter3」を資料として参照させていただきました。
https://www.inu-inu-yeti.com/
本インタビューは、インタビュー時から約40年前のお話を中川さんにお聞きしました。そのため中川さんご自身の記憶にどうしても曖昧なところが一部ある上でのお話となっています。その曖昧な部分を可能な範囲で補完するための事実確認と資料提供に関して、下記の皆様にご協力をいただきました。こちらにお名前を紹介させていただき、お礼を申し上げます。(氏名五十音・アルファベット順、敬称略)
見城 こうじ
佐藤 昌信(GAMERSBAR lettuce702 店長)
OAM HIDE®
Show.@OLDゲーマー
TYR-YETI
脚注
↑01 | ※『スーパーハングオン』の4つのコース ビギナー全6ステージ、ジュニア全10ステージ、シニア全14ステージ、エキスパート全18ステージの4コースとなっている。ゲームスタート時にプレイヤーが選択できる。 |
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↑02 | ※キャサ夫氏 北海道・旭川市出身。中川さんとはキャサ夫氏が学生時代から道内のゲーセンで交流があった。上京後、町田のゲーセンを拠点にシューティングゲームのスコアラーとして有名となる。その後、『バーチャファイター』の強豪プレイヤーとして頭角を現す。『バーチャファイター2』ではセガ公認の「鉄人」の称号を受けた6人の中のひとりとなり、テレビや雑誌などでも取り上げられる。「ゲーメスト」、「アルカディア」のライターでもあった。 |
↑03 | ※ダブルクレイドル筐体 『アフターバーナーII』には二軸構造で前後左右に座席が傾くデラックス版的なダブルクレイドルタイプと、左右のみに座席が傾く簡易版のクレイドルタイプといった二種類の筐体が存在した。 |