「イチハラ指揮者の“カレー”なる日々」第13回 *ゲヱセン上野さんに「オホーツクに消ゆ」のインタビューをするんダーッ!!! 前編*

  • 記事タイトル
    「イチハラ指揮者の“カレー”なる日々」第13回 *ゲヱセン上野さんに「オホーツクに消ゆ」のインタビューをするんダーッ!!! 前編*
  • 公開日
    2021年09月10日
  • 記事番号
    5916
  • ライター
    イチハラ指揮者

元気ですか! 元気があればなんでもできる。元気があればインタビューもできる!

というわけで、大変お久しぶりです。イチハラ指揮者です。

最後の記事から8ヶ月近くも空いてしまいました。
しばし間が空いたこの期間で、身の回りがいろいろと動き出してまいりました。
本番が決定するオーケストラ、本番を開催するオーケストラ、実に14ヶ月振りに活動を再開するオーケストラなど、文化的にはようやく春の予兆が感じられます。

しかしながら、新型のアレを取り巻く環境は依然として予断を許さず、未だ使用できない会場や、使用人数の制限、時短要請等が続いており、回復したとまでは到底いい難いというのが実情です。
このままアレの増加が続けば、いつまた文化活動が制限されるかわかりません。
二度とそのようなことにならないよう、一個人としてできる範囲で感染拡大防止に努めつつ、減少に転じていくことを祈るばかりです。

さて、昨年、ファミコン版(以下「FC版」)『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』(以下『オホーツク』)の全曲レビューを行いましたが、『オホーツク』音楽にすっかり魅了された私は、どういった経緯で作曲されたのか等、より深い話が気になって仕方がなく、作曲者でありますゲヱセン上野さんこと、上野利幸さんのインタビュー等を探してみたのですが、探せば探すほど、ないに等しいことがわかりました。

こんな傑作を残されたかたなのに、リスペクトする者がいないとは何事だと憤慨した私は、すぐさま編集長に猛烈に抗議する(お門違い)とともに、上野さんにインタビューを敢行したい旨を申し入れたのでした。
編集長はこれを快諾。上野さんとコンタクトを取れるようにしてくださいまして、インタビューが実現いたしました。
恐らく史上初の上野さんのロングインタビューを全3回でお送りいたします。
忍者増田さんから頂いた、オホーツクツアーの写真と共にお楽しみください。

「ゲヱセン上野」というペンネームの由来がまさかの!?

イチハラ指揮者(以下「――」):元気ですか!!!

上野さん(以下「上野」):あ……はい、おかげさまで元気です。(引き気味)

――:このたびはインタビューをお受けくださり、ありがとうございます。

上野:こちらこそ、ありがとうございます。お手柔らかにお願いします。

――:まずは、お名前、ペンネーム、略歴等といった基本的な部分を教えてください。

上野:本関係の仕事ではおもに「ゲヱセン上野」や「げゑせんうえの」のペンネームで活動をしています。それ以外の仕事では、本名の上野 利幸(うえの としゆき)を使うことが多いですね。略歴はですね、最初が新聞配達のアルバイトで……あ、そこまで遡らなくていいですか、そうですか。というか、意外と経歴を略しにくいので、このあと根掘り葉掘り訊いてください(笑)。

――:私はファミ通読者でしたので、ゲヱセン上野さんとして存じておりました。ペンネームの由来はどういったものでしょうか。

上野:あまり深い意味はなくて、当時、パソコン雑誌「ログイン」の編集者だった塩崎さん(*01)が名付け親なんです。最初は「ゲーセン上野」にされそうだったのですが、それだとあまりに普通すぎるので私が「ヱ」だけ旧字にしました。

――:たけし軍団の芸名チックな感じですね(笑)。ファミ通を読んでいた当時、作曲をされていたことは全然知らなかったです。元々ライターさんだったのでしょうか。

上野:最初はプログラマーでした。始めたきっかけはパソコン雑誌のアルバイト募集に応募したことなんです。

――:何と、プログラマーですか!

上野:はい、プログラマーとして華々しくデビューしました! 華々しくはウソですが(笑)。当時「月刊アスキー」というパソコン雑誌がありまして、そこから派生して「ログイン」という雑誌が創刊されたのですが、巻末にアルバイトスタッフ募集の告知があったんですよ。それに応募したのがきっかけです。1983年のことですね。面接に行ったら運良く採用していただけました

――:スタッフというのは、具体的にどんなスタッフを募集していたんでしょうか。

上野:昔のパソコン雑誌って、誌面にプログラムリストが掲載されていて、それを自分のパソコンに入力して遊ぶことができたんですね。そういった、掲載用のプログラムを作れそうな人だったり、コンピューターが理解できる人を採用したいという感じだったと思います。

――:その時点でプログラム経験はあったんでしょうか。

上野:1982年にNEC PC-6001というパソコンを買って、独学で学んでいました。その頃、一般の人でもちょっとお金を貯めればパソコンを買えるよ、みたいな状況になってきたのでPC-6001を購入し、ゲームで遊んだり、プログラムの解析みたいなことをしたりしていましたね。そんなタイミングで見つけたアルバイト募集だったので、おもしろそうだなと思って応募したわけです。編集部がおしゃれタウンの南青山にあったのも、ちょっと魅力でした。

――:そして編集部でプログラムを書いていた。

上野:プログラムは家で書いていました。アルバイトなんですけど、時給ではなかったと思うんですよ。報酬(ギャランティー)みたいな感じだったのかな、はっきり覚えていませんが。で、完成したプログラムを納品するときに、内容や操作方法などをドキュメントに起こして渡す必要があるんです。そんなテキストを書いているうちに、「原稿も書けるでしょ!」みたいな話になってしまいまして……(笑)

――:そんな流れで(笑)

上野:それでコラムや記事を書くことになってしまったわけです。私、国語とか作文とか苦手だし、大っ嫌いだったんですけどね(笑)。その後、取材に行ったり、記事のラフレイアウトを切ってデザイナーさんと打ち合わせをしたりと、言われるがままにいろいろと任されるようになってしまいました。そんな経緯で執筆や編集に携わっていくことになります。

――:果てはゲームやゲーム音楽の制作まで。

上野:そうですね。だから、自分からアクションを起こしたのって、最初のアルバイト募集に応募したことくらいなんですよ。あとは流れの中で頼まれて、そのまま断れずに……みたいな。いや、断れずにというよりは、人手も限られていたのでやらざるを得ないといったほうが正しいかもしれませんね。でも、多分それは「ログイン」だけじゃなくて、他のパソコン雑誌などでも同じような状況だったんだろうと思います。

――:なるほど。プログラマーとしてスタートしたのに、その枠を遥かに超えていますね。

上野:おおらかな時代ですよね。「ちょっとこれやってよ」という軽いノリで、頼んだり頼まれたりしていましたからね。当時はコンピューターのことを理解した上で執筆できるライターも、コンピューター用の楽曲制作ができる音楽制作者も限られていたので、様々な仕事を依頼されました。

――:マルチですね。今の分業制の時代ではなかなか考えられません。そのマルチな仕事のうちの一つが、ゲーム音楽の作曲であったと。

上野:そうですね。マルチというか、何でも屋というか(笑)。

タイトル画面に使用された地。いわば聖地ですね。(写真提供:忍者増田氏)

上野さんの驚くべき音楽歴

――:プログラムとライティングというのはまだわかる気もするのですが、音楽というのはまるで畑違いのように思えるのですが、元々作曲の勉強などはされていたのでしょうか。

上野:いえ、「作曲」の勉強はまったくしていません。

――:ええっ!? まったくですか!? 楽曲を聴く限りでは信じ難い事実です。

上野:ただ、音楽と無縁というわけではなく、中学生時代に所属していた吹奏楽部で音楽に関する知識や経験を叩き込まれました。

――:何と、吹奏楽ご出身ですか! 私もなんです。何だか嬉しいなあ。私は当時テューバをやっていたのですが、上野さんは何の楽器だったのでしょうか。

上野:私はバストロンボーンでした。本当は、小6の部活で吹いていたトランペット志望だったのですが、トランペットは人気楽器で競争率が高くて、結局バストロになってしまいました。

――:おおっ! トランペットからのバストロンボーン! 私もテューバの後、トロンボーンに転向したので、近いですね!(一人でおかしなテンションになる)

上野:あるときは他の低音楽器と一緒に正確にリズムを刻んだり、ここぞという場面では盛大に吹き鳴らしたりと、いろいろな役割を持つパートなのでおもしろいですよね。その吹奏楽部は、全日本吹奏楽コンクールの全国大会で金賞を獲得するような部で、私も金賞の年に在籍していたので、本当に毎日毎日音楽漬けでした。

――:ええっ、全国大会で金賞というと正真正銘の日本一じゃないですか! そんな強豪校ご出身とは、これまたびっくりです。となると、相当厳しい部だったのではないでしょうか。

上野:それはもう、かなり厳しかったです。休日も朝から晩まで練習なんて当たり前でしたし、夏休みの間もほぼほぼ毎日登校していましたから。今でいうブラック部活ですね(笑)。

――:今それをやると大問題になりますが、少し前までは当たり前でしたね。

上野:全国大会に出るようなところは、どの学校もそれくらいやっていたんだろうと思いますけどね。しかも、一時期は男子部員が足りないという理由で、合唱部に派遣されたりとか……。そんなハードな環境の中で、自然と音楽の素養が身についたのだと思います。

――:嫌でも染み込んでいく感じですね。

上野:特に、耳が慣らされたと思います。合奏でも合唱でも、他のパートの音に耳を研ぎ澄ませながら、自分のパートを演奏する必要があるじゃないですか。

――:はい、大切ですね。それで全体像を把握できるようになったりしたと。

上野:コード感覚なども、そうした経験の中で身についたのかもしれません。ただ、度が過ぎて他のパートのフレーズを覚えて、勝手に吹いたりしていたんですよね、練習中に。

――:それやりますね! 特に普段メロディーのない楽器だと。

上野:トロンボーンって、曲によっては延々と休符が続いたりするのでヒマなんですよ(笑)。それだけならばまだいいんですが、他のパートのフレーズを、うっかりステージ上で吹いたことがありまして……(笑)。

――:ええっ!?(笑)

上野:しかも、フルートのパートをバストロンボーンで吹くという暴挙を! 指揮者の顧問の先生から、鬼の形相で睨まれました(笑)。

――:でしょうね(笑)。私はさすがに本番ではないですが、気持ちは非常にわかります(笑)。

上野:よい子はやってはいけませんよね(笑)。とまあ、そんな毎日を3年間続けたのち、金賞受賞の達成感で燃え尽きて、高校では帰宅部になるわけです。放課後の時間を持て余して、パソコンに興味を持つきっかけにもなったわけですが。

――:高校で帰宅部というところも私と同じです(笑) 高校にもなると、バンドなんかをやりだす人が増えてくると思うのですが、吹奏楽以外に音楽はされていたのでしょうか。

上野:周りにそういう人がいなかったので、バンドはやらなかったんです。先ほどお話しした吹奏楽部の個人練習の時間に、アルトサックス担当の友人と渡辺貞夫のカバーごっこをして遊んでいたくらいですね。あとは、小さいころからとにかくいろいろな音楽を聴いてました。記憶にあるところでは、小学校低学年のときに、家にあったクラシック音楽やムードミュージック、日本の童謡といったボックスセットのレコードをくり返し聴いていましたね。

見事な流氷。一度は見てみたいものです。(写真提供:忍者増田氏)

中条きよしにハマる小学生

――:いろいろな曲が入っている、今でいうコンピレーションというやつですね。

上野:同じころ、中条きよしにもハマっていて、自腹でレコードを買っていました。他にも、細川たかしとか、何故か演歌を結構聴いていたんですよ。ちなみに中条きよしは、デビュー曲から5曲目くらいまで、シングルを発売日に買っていました。

――:めちゃくちゃファンじゃないですか(笑)。中条きよしさん、幼心にグッとくるものがあったんですかね。

上野:今思えば、山口洋子×平尾昌晃コンビの良曲ですし、歌も絶品だし、ジャケット写真もダンディでしたから、カッコいいと感じたんでしょうね。その後は、小学校中~高学年でイージーリスニングにハマったあと、クロスオーバー/フュージョン、ジャズ、ソウル、テクノなどの、とくにインストものばかり聴いていました。

――:インストものばかりというのがミソな気がしますね。影響を受けた音楽家はいらっしゃいますか?

上野:おそらく、聴いた曲すべての影響を受けているのでキリがないのですが、パーシー・フェイス、バート・バカラック、バリー・ホワイト&ラヴ・アンリミテッド・オーケストラ、ヴァン・マッコイ、デイブ・グルーシン、デビッド・フォスター、ボブ・ジェームス、クラフトワーク、YMO、RAH BAND、大野雄二、久石譲等々……まだまだ挙げきれませんね。元ナムコの大野木宣幸さんなど、ゲーム音楽の影響も受けていると思います。とくに大野木さんの『リブルラブル』の曲は大好きで、ゲームセンターでテレコに録音し、耳コピしてPC-6001のPSGで鳴らしたりしてました。

――:そういった環境、経験が元になって作曲に繋がっていくわけですね。

(中編に続く)

  

これまで明かされていなかった上野さんの音楽歴。大変貴重な話が聞けました。
次回から『オホーツク』の話に迫っていきます。

それではまた次回! 読めばわかるさ、ありがとーっ!

脚注

脚注
01 塩崎剛三(しおざき・ごうぞう)氏。雑誌編集者。ファミコン通信第二代編集長「東府屋ファミ坊」としても知られる。

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