海外アップライト筐体中心のゲームセンター 「KINACO」

  • 記事タイトル
    海外アップライト筐体中心のゲームセンター 「KINACO」
  • 公開日
    2018年06月11日
  • 記事番号
    400
  • ライター
    外山雄一

東京の電気街・秋葉原が、1990年代以降「オタク文化の聖地」へと変わったように、大阪の電気街である日本橋にも、時期を同じくしてゲーム店、アニメグッズ店、メイド喫茶などが増え、街が変貌した。
そんな日本橋には、筆者が関西に行く際に必ず訪れる店がある。海外アップライト筐体中心のラインナップを誇るゲームセンターKINACO」だ。おそらく、日本中どこを探しても同じコンセプトの店はないだろう。
本記事では「KINACO」の魅力とともに、ゲーム筐体輸出入を通じて交差した日米のゲーム文化についても触れていきたい。

アメリカ版の筐体がズラリ!

▲細長い店内に、アップライト型の筐体がズラリと並んでいる

「KINACO」は、風営法(「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」)でいうところの風俗営業第5号(*01)の許可を取得している、れっきとした日本のゲームセンターだ。
「KINACO」に入ると、細長い店内の左右にズラリと並ぶゲーム筐体の異質さに圧倒される。全25台のうち、なんと日本製の筐体はゼロ! かろうじて日本製ゲームとして『パンチアウト!!』(1987年/任天堂)があるものの、筐体はアメリカ版だ。時折、稼働ゲームの入れ替えはあるが、取材時(2018年5月)のラインナップを紹介しておこう。なお、メーカー名の記載がないものはすべてアタリ(*02)だ。

入口から見て左手(手前~奥)
『ペーパーボーイ)』(1985年)
『STAR WARS:RETURN OF THE JEDI(ジェダイの帰還)』(1984年)
『ピーターパックラット』(1985年)
『ロードランナー』(1985年)
『スマッシュT.V.』(1990年/ウィリアムス)
『フードファイト』(1983年)
『ミサイルコマンド』(1980年)
『テンペスト』(1981年)
『ブラックウィドウ』(1982年)
『マーブルマッドネス』(1984年)
『グラヴィター』(1982年)
『クアンタム』(1982年)
『メジャーハボック』(1983年)
『スター・ウォーズ』(1983年)

入口から見て右手(手前~奥)
『720°』(1986年)※故障中
『ピットファイター』(1990年)
『クラックス』(1990年)※ランパート筐体
『ロボトロン2084』(1982年/ウィリアムス)
『NIBBLER』(1982年/Rock-Ola)※STAR TREK筐体
『パンチアウト!!』(1983年/任天堂)
『アステロイド』(1979年)
『ルナーランダー』(1979年)
『バトルゾーン』(1980年) ※故障中
『San Francisco RUSH: EXTREME RACING』(1996年)
『Race Drivin’』(1990年)

当研究所の別記事、ゲームセンター聖地巡礼「1980~1990年代 高田馬場」でも触れられている「ゲームブティック 高田馬場店」は、1980年代にアタリのゲームを多数稼働させていたとのことだが、数では「KINACO」には敵わないと思われる。

「KINACO」成り立ち ~誕生前夜~

▲海外アーケードゲームの魅力にハマった「KINACO」オーナーの吉岡氏

「KINACO」は、オーナーの吉岡啓之氏が本業の傍ら1人で運営している個人店だ。このため、基本的に週末のみの営業で平日は開いていない。営業日は公式TwitterFacebookで確認してほしい。

吉岡氏が「KINACO」をオープンさせるにあたり、吉岡氏のバックグラウンドはかなり重要である。吉岡氏にとって、ゲームセンターとは、最初は地元にあったセガ系列店であった。中学生になると新世界の「ゲームコーナーミッキー」や「スペースキューティ」まで足を延ばすようになった。当時人気だった『グラディウス』(1985年/コナミ)や『ドルアーガの塔』(1984年/ナムコ)とともに、『三輪サンちゃん』(1984年/セガ)、『テディボーイ・ブルース』(1985年/セガ)などを、中学時代からよく遊んでいたという。同時期に、大手の店では輸入された海外のゲーム筐体で『スター・ウォーズ』や『マーブルマッドネス』を稼働させており、これらも時折遊んだそうだ。

海外のゲーム、特にアタリのベクタースキャン(*03)のゲームは、一般的なラスタースキャン(*04)のゲームとは見た目、画面の輝度、描かれるグラフィックや動きなどが明らかに違う。「KINACO」にも並んでいるラスタースキャンの海外ゲームも、日本のゲーム基板とは解像度や発色、キャラクターデザインが異質なため、独特の雰囲気を醸し出している

光り物好きな吉岡氏は、1980年台当時からベクタースキャンをはじめとした海外アーケードゲームの魅力に惹かれていた。

▲店内に飾られているポスターの一部は、かつて新世界にあったゲームセンター「QT」閉店時に譲り受けたもの

「KINACO」成り立ち ~筐体輸入~

「KINACO」のオープンは2014年10月26日だが、吉岡氏がゲームセンターを開こうと思い立ったのは、そのさらに10年ほど前。ネットを介して知り合ったアメリカの業者を通じて、一気に40数台のゲーム筐体をコンテナに詰めてもらい、船便で輸入した。輸入にあたっては、それぞれの筐体の動作チェックをしてもらい、すべて動く筐体として代金を支払った。

しかし、いざ日本に到着した筐体を検品してみると、なんと多くの筐体が動作せず、まともに動くのは3割程度であったという。当時としても製造から20数年が経過した筐体で、輸送時に壊れた可能性もあるが、それにしても半分以下とは…吉岡氏は途方に暮れた。

吉岡氏は、本業の合間に少しずつ筐体の修理を始めた。もともと、輸入にあたってさまざまなアドバイスをしてくれた友人がおり、修理に関しても技術面やパーツ面でのサポートをしてもらった。そうして修理を進めるうちに、一部に「筐体をたくさん持っているすごい人がいる」という噂が広まり、吉岡氏の周囲にゲームマニアが集まってきた。そうした人々の助けと後押しもあり、「KINACO」のオープン準備が進んでいった。

日米のゲーム基板・筐体は、電子機器であり木工製品であるところは同じだが、当然ながら使われている部品や設計思想は似ているようで違う。吉岡氏は周囲の助けを受けつつ、海外筐体の修理ノウハウを身につけていった。

あるゲームを動かすのに必要だが、日本国内では入手が難しい部品は、同時に輸入した別のゲームから外すこともあった。こうして部品取りに使われたゲームを今後動かすことは、おそらく困難になるが、人気が高いゲームを稼働させるためにはやむを得ない。

▲かつて、日本科学未来館での企画展「GAME ON~ゲームってなんでおもしろい?」(2016年開催)に出張していた筐体

「KINACO」店名の由来

▲「KINACO」のロゴ

店名をつけるにあたり、吉岡氏は自身の友人に色々と案を出してもらった。その中で、ゲームセンターっぽくない「キナコ」という響きを気に入り、別の友人が「K」の部分にATARIマークをイメージしたロゴと、「NAMCO」をイメージしたスペルを提案してくれて、店名である「KINACO」が決まった。

大阪が変わったこの10年

▲「KINACO」常連客が製作した各種ゲームディスプレイ

この10年の間に、大阪の街も大きく変わった。通天閣の足元に広がる新世界は、一時期は人通りも少ない、いわゆる「シャッター通り」に近い状態だったが、その後、串カツ屋の乱立や外国人を含む観光客の急増で、活気あふれる街になった。ゲームセンターも、当時から残る一部の店に加え、レトロゲーム専門をうたう店も新たにでき、ゲームファンにとってもうれしい街に変貌した。

地元大阪のこうした変貌について、吉岡氏は「まったく予想できなかった」と言う。ゲームセンターを開業するにあたって、場所は最初から日本橋と決めており、「ゲームセンターを開業するなら、新世界は最初から考えていなかった」と話しているが、今の状況が分かっていたら、その判断も変わっていたかもしれない。

「KINACO」開店!

「KINACO」のオープン前には、店の情報を聞きつけたおにたま(*05)が来阪。OBS「基板大好き」コーナーで「通好みすぎるレトロゲームセンター、Kinaco Retro Arcade in Japan」としてレポートしている。

こうした動きもあり、2014年10月のオープン当初は多くのお客さんで賑わった。いまでも営業時には、日本全国から「KINACO」来店のために大阪までやってくるお客さんもいる。

店の中で今でもインカムが一番高いのは、『マーブルマッドネス』。これだけを目的で通う常連客もおり、高得点が取れるよう互いにアドバイスをする客同士の姿も見られるのだとか。そのおかげで、若い頃出せなかった20万点を「KINACO」で初めて得点できた客がおり、その客もいまだに飽きることなく『マーブルマッドネス』をやりこんでいる。このような安定した人気が常にインカム1位を保持できる理由となっているのだろう。

「KINACO」を知ってやってくる客が大半であるが、時にはたまたま通ったからと立ち寄る一見客もいる。せっかくやって来たのだから、日本中ここでしかプレイできないゲームを遊んでいってほしいものだが、アタリやウィリアムス(*06)のゲームは当時から難しく、慣れるまでは開始後数分とかからずゲームオーバーとなってしまうプレイヤーも多い。このようなプレイヤーのため、「KINACO」では遊び方を簡単にまとめた資料を店内で無料配布している。こちらも有効に活用してほしい。

▲マンガ『ゲームセンターあらし』にも登場した『ミサイルコマンド』(左)

日米、ゲームの進化の過程の違い

ゲームセンターに並ぶビデオゲームのデザインは、その大半が何かをモチーフにしていたり、別のゲームの影響を受けている。
書籍『それは「ポン」から始まった』(2005年/著:赤木真澄)の書名にもなっている『ポン(PONG)』(1972年/アタリ)はビデオゲーム創世記の卓球ビデオゲームで、翌年には海を渡り、日本ビデオゲーム文化の発芽に大きな影響を与えた

今でこそ、ヒットしたゲームの情報はネットを通じて全世界を駆け巡るが、1970~1980年代は実際のゲーム機や遊んだプレイヤーが国境を超えるまで、その面白さの本質が伝わることはなかった。

▲日本の一部のゲーム開発者に大きな影響を与えた『メジャーハボック』(右)

日米を中心に、世界中でさまざまなビデオゲームが生まれ始めた1980年代も、まだ情報の伝搬速度は遅く、各国のゲームはそれぞれ影響し合うこともほとんどないまま、独自の進化を遂げていく。PC用や家庭用ゲームと違い、アーケードゲームの場合は筐体の大きさや通関の手間もあって輸出入のハードルが高い。しかし、それを超えて海を渡った筐体が、他国のゲーム開発者のアイデアに影響を与えた例は多い。

日本のゲームがアメリカのゲーム開発者を刺激した例もあるが、もちろんその逆もある。ここ「KINACO」に並んでいるアメリカ製のゲームは、当時日本のゲームプレイヤーや開発者を大いに刺激し、その後の日本製ゲームに大きな影響を与えている。『メジャーハボック』は輸入台数こそ少なかったものの、『テグザー』(1985年/ゲームアーツ)やファミコン『カイの冒険』(1988年/ナムコ)の開発者自らが「影響を受けた」と公言しているし、日本中に出回った『スター・ウォーズ』も、その後の日本製3Dシューティングゲームに大きな影響を与えた。ほかにも例は多数あるだろう。

▲3Dシューティングゲームの名作『スター・ウォーズ』

「KINACO」に置いてある海外ゲームの中には、当時日本に輸入されヒットしたものもあれば、ヒットしなかったもの、そもそも輸入されなかったタイトルもある。もし、これらの海外ゲームが日本に入って来なかったら、あるいは来ていたら…? 日本のゲームの歴史が大きく変わっていたかもしれない。

そんなことを考えながら、日本橋「KINACO」、そこからほど近い新世界のゲームセンターで日米のゲームを遊び比べるのもおもしろい。近くに立ち寄った際には、ぜひ足を運んでほしい。

店舗情報

ゲームセンターKINACO
住所:大阪府大阪市浪速区日本橋5-10-14
電話:なし
営業時間: 不定期(※営業日時の告知はSNSにて。都合により営業時間の変更や休館する場合もあり)
休み:不定期
駐車場:なし
公式Twitter
公式Facebook

外山雄一

脚注

脚注
01 風俗営業第5号 : テレビゲームやスロットマシーンなどの遊戯を提供し、小売価格が概ね800円以下のもの以外、商品としての提供が禁じられているゲームセンターなどがこれに該当する。原則として深夜24時~午前10時までの営業が禁止され、16歳未満の者は18時~22時までの間、保護者同伴でなければならない。
02
アタリ
 : 1972年創業の世界初のビデオゲーム会社で、英語表記は「Atari」。ビデオゲーム部門は1985年に分割して「Atari Games」となり、その後数回にわたっての買収、社名変更、破産を経て、現在ゲームの権利はワーナーが保有している。現存する「Atari, Inc.」は、1985年分割時の家庭用ゲーム・パソコン部門がベースとなっており、旧「Atari Games」とは別会社。
03 ベクタースキャン : ブラウン管の描画部分にだけ電子ビームを走査させ、図形や映像を描画する方式。描画しない黒い部分と、描画される明るい部分の輝度差が大きい。ゲームの場合、描かれたキャラクターが輝くような印象になる。また、ラスタースキャンと違ってドット(点)ではなくライン(線)での描画となる。
04 ラスタースキャン : ブラウン管の左上から右下にかけ、横方向に1ラインずつ電子ビームを走査する、一般的なディスプレイの描画方式。
05 おにたま氏 : ONION software代表。おにたま放送局「OBSLive」の企画構成・司会を行う。
06 ウィリアムス : 1960~1990年代にわたり使用されていたピンボール、ビデオゲームのブランド名。ビデオゲームの『ディフェンダー』(1980年)、ピンボール『ハイ・スピード』(1986年)などが有名。同ブランドを使用していたウィリアムス・マニュファクチュアリング社(1943年創業)は、その後、幾度にもわたる社名変更を経て、現在はギャンブル機メーカー(WMSインダストリーズ)となっている。

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