ゲームセンターNTK店長・石井賢司氏インタビュー 「80~90年代・青春をかけたゲームセンター経営」後編

  • 記事タイトル
    ゲームセンターNTK店長・石井賢司氏インタビュー 「80~90年代・青春をかけたゲームセンター経営」後編
  • 公開日
    2026年08月07日
  • 記事番号
    14597
  • ライター
    藤井昌樹

1985~1999年の期間、北海道恵庭市に「NTK」というゲームセンターがあり、そこで店長を務めた石井賢司さんに当時のお話を伺いました。「NTK」はメーカーの直営店とは異なる個人経営の店でありながら、道内各地は元より道外からもプレイヤーが集まる人気店として高い知名度があったお店です。80年代の時点でゲーマー同士が主体的に交流する場を提供するなど、先駆的な取り組みも行っていました。しかし、そのような人気店もゲームセンターの変化の波に飲まれ、最終的に閉店の決断をすることになります。
今回のインタビュー後編では、ゲーセン経営にあたっての石井さんのこだわり、そして1999年の閉店に至るまでの経緯についてお話を伺いました。ビデオゲーム主体のゲームセンター、その栄枯盛衰のひとつの事例として貴重な記録となっています。

以前、札幌在住の元ハイスコアラー・中川 剛さんにインタビューを行った際に「NTK」の話題がありました。そのときのお話が筆者の中で強く残っていて、機会があればぜひ石井さんにお話を伺いたいと考えていました。今回の石井さんへのインタビューは、中川さんのご厚意とご協力があったことで実現しました。
中川さんのインタビューで「NTK」についてもお聞きしています。ぜひ、こちらもお読みください。

「80~90年代・青春をかけたゲームセンター経営」前編は、こちら

「NTK」元店長である石井賢司氏

 

ゲームセンター運営にあたっての「NTK」のこだわり

―― ちなみに「NTK」では1プレイいくらだったんですか?

石井 千葉のときは50円メインで、古くなったゲームは10~30円。恵庭に来てから0号店のときは50円メインで新製品だと100円。これは移転後の1号店でも同じでした。最後にオープンした2号店は100円メインでしたけど、恵庭に他店舗がオープンしたときに50円に下げました。1号店と2号店を同時営業していたときの1号店は50円メインにして他を20~30円にしていましたね。

―― 今のお話で新製品が100円でそれ以外を50円にしていたとありましたが、このときの新製品と定義される期間というのは?

石井 それは売上を見て各ゲームごとに判断していました。売上が落ちなければ2か月でも3か月でも100円にしていましたし、人気がなければ1週間で50円に下げるゲームもありました。

―― 不良が来ない店ということも意識されていたということでした。

石井 それは千葉の実籾(みもみ)の頃からですね。不良っぽいお客さんはうちには入れない、他所に行ってくれということで店に入れないようにしていた。それは自分がオーナー兼社長であり、自分の店だからできたわけですよね。雇われだとそこまでやらないじゃないですか。その頃は今考えると怖いものなしでしたね。

―― ゲーム筐体のメンテナンスの良さも「NTK」の売りということでした。

石井 これは千葉にいた時代からずっとこだわっていました。画面のことで言うと、ブラウン管で同期がずれてフォーカスがぼけていると画面が見づらいじゃないですか。それとブラウン管の静電気で画面にほこりがついてだんだん黒くなってくる。だから数日に1回は蓋を開けて画面を拭いて、内側のガラスも拭いて、常に画面はきちんときれいにしていました。それとレバーやボタンをいつも確認して、お客さんから苦情があったら、すぐに取り替えました。それは恵庭に移ってからもすべての店で完璧にやっていましたね。

―― 他の店員さんがいたときも、そこは徹底していたのですね。

石井 そうです。メンテナンスについては千葉にいた頃にずいぶんと学ばせてもらいました。実籾って駅と隣駅の周りに全部で14~15店くらいゲーセンがあったんです。競争が激しいから、みんな1プレイ50円なんですよ。そうすると何で差別化をはかるかというと客層と、あとはメンテ。ボタンやレバーがダメなゲーセンというのはプレイヤーが楽しくないじゃないですか。自分がかつてプレイヤーだったからこそ、それがよくわかる。ちょっと誇張なところはあるかもしれないけれど、メンテは当時日本一だったかなという自負はあります。

―― 大型筐体のメンテナンスも同様に気を使っていたわけですよね。

石井 大型筐体のメンテは、通常の筐体より気を遣うところが多かったですね。『アウトラン』(セガ/1986年)の「ギアガチャ」(*01)でギアの調子悪くなったりするとすごい気を遣いましたよね。

―― でも、あれはあれで攻略法としてちょっと確立してしまったところもあるからダメとは言えずみたいなところもありそうですね。

『アウトラン』などの大型筐体は汎用筐体のゲームよりメンテナンスをするうえで気を遣うところが多かった(※画像は旭川・高砂温泉にて2026年現在も稼働しているスタンダード筐体)
©SEGA

石井 ボタンも、どのメーカーのものがいちばん長持ちするか検討していました。セイミツ工業株式会社(*02)さんのボタンがお気に入りで使っていましたね。ボタンに限らずですが、壊れているところがはっきりしているとそこを取り替えるだけでいい。でも調子が悪かったり正常だったりを繰り返して原因が特定できない場合があって、それがいちばん困った。お客さんから言われて確認すると何ともないんですよ。でもしばらくすると症状が出る。そういうのはひとまずチェックしておいて、不調の頻度が高くなれば原因になっていそうなところを推測してそこを交換して対処しました。とにかくメンテにはお金と手間をかけていました。自分の店であり、買い取った筐体や基板だからそこまで意地になってやっていたわけですよね。それが自営業の強みかなと思います。

―― ちょっと余談になりますけど、「NTK」さんでは残機を増やすとか難易度を変えるといったゲームの設定はどうしていましたか?

石井 あくまでも標準設定です。特にハイスコアを雑誌に載せるようになってからは、サービスで1機増やしたりとか、難易度を下げたり上げたりということは、一切やっていません。ハイスコア集計を雑誌に載せるにあたって条件が標準じゃないというのはおかしくなっちゃいますからね。

各地のゲーマーが主体的に支えた「ゲーム交流会」

―― 改めて「ゲーム交流会」について、お聞きします。

石井 毎月最終日曜日にみんなうちに集まって、楽しくゲームをやって、ハイスコアも競って、あとはスコア関係なく話しましょうという。ゲーマー同士で横の繋がりを持って友だちになったり、一緒にご飯食べに行ったり。文字どおりの交流ですよね。

―― プログラムがあって何時から何時に大会があるみたいなものではなく?

石井 そういうのは何もないです。店内にあるゲームで自由に遊んでくださいということですね。こっちがあんまり余計なことしなくても、来てくれたゲーマーの皆さんはお互いに気を遣って、気分の悪いことにならないようにやってくれました。それは本当にありがたかったですね。

―― 中川さんのインタビューで聞いた『飛翔鮫』(タイトー販売・東亜プラン制作/1987年)の「1億点チャレンジ」は、NTKが設定したのではなく、やりたい人が勝手に自由にやっていたということですか?

石井 そういうことです。土曜日の夜からやっていたから、そういう長時間のプレイもできたわけですよね。土曜の夜12時になったら店の表のシャッターを全部閉めちゃうんですよ。裏口もあったので、夜中はそこから店内に入ってもらった。さっき話したとおり、当初は室蘭から来ていた人たちが土曜日から来ていたわけですけど、それを知った他の地域の人も前日から来るようになったんです。それと1号店の場所がコンビニの目の前だから場所が良かったんですよね。道路を渡ったらコンビニがあるので、お腹が空いても不自由がなかった。

―― 室蘭の方々がやったように口コミで他の地域のゲーマーに「NTK」の存在が伝わった。ほかにはゲーメストのハイスコア集計のコメントで告知をしたことで、交流会の存在が広く伝わったわけですよね。中川さんのインタビューでは、「NTK」の交流会で札幌のLAP-BMXERさんというプレイヤーが『スーパーハングオン』(セガ/1987年)の最速タイムを毎回更新するので、それを見るために道外からもお客さんが来るほどだったというお話も聞きました。インターネットがない時代だから口コミや雑誌の情報を見て知ったというのが、当時は当たり前ですけど今の視点からだと隔世の感があります。

80年代から90年代にかけて北海道内で活動していた主なゲームサークル。記載されている地域以外にも存在していた。(画像提供:中川剛氏)

石井 すごいですよね、口コミと雑誌の力ね。道外からの来客で言うと、ゲーメストの編集の人が北海道に来たときにうちに寄ってくれたこともありましたよ。ゲーメストの編集者さんのうち数人の方からは特に仲良くしていただいたんです。

―― そもそもゲーメストとの接点は、いつから始まったのですか?

石井 うちがハイスコア掲載店として何度か掲載していただいた頃、あれは春だったから「AOUアミューズメントエキスポ(AOUショー)」(*03)ですね。そちらを見に行ったんです。

―― 新作ゲームのチェックで行かれたのですね。

石井 そこの新声社のブースにゲーメストのコーナーがあって、ぼくが名刺を出して挨拶したんです。「いつもお世話になっています、スコアを掲載していただいている北海道恵庭のゲームセンター「NTK」代表、石井と申します」って。そうしたら「いつもありがとうございます、ちょっとこちらでお話でも」と誘っていただいたんです。「時間があったら神田にある編集部に来てください」とも言っていただいて。そんな感じで急速に仲良くなって、それがスタートです。

―― ゲーメストの1988年7月号(Vol.22)(*04)に石井さんの記事が掲載されています。

石井 当時のゲーセンはメーカー直営が多かったので、ぼくのようにゲーム買い取りで経営して、かつ25歳で社長、店も流行っているという話をしたら興味を持っていただいたようで、それで記事の掲載に繋がったんです。

―― ゲーム交流会はどれくらいまで続けられたのでしょう?

石井 1989年までですね。その年の12月に2号店が開店します。さっき言ったとおり、1号店と2号店が同時営業だったので、店の規模が大きくなったんですよ。それで忙しくなっちゃって、交流会は自然消滅した感じです。2号店オープンの前月である11月が最後でしたね。

―― 交流会は月2回やることはなかったのですか?

石井 それはないです。毎月最終日曜日というのは絶対に変えなかった。下手に変更すると、いろいろおかしくなっちゃうので。

―― 交流会の最終回は最後ということで何か特別な催しはあったのでしょうか?

石井 「これで終わりです」という感じはなかったですね。いつもと同じ内容でやりました。

ゲーセンを経営するうえで「情報」は大事

―― 2号店の開店は、やはり1号店だけでは手狭になったからですか?

石井 そうですね。それと店内に設置するゲームを区分けして客層を分ける狙いもありました。2号店は大型機と1プレイ100円の最新作をメインで。1号店は50円メイン。2号店が開店した数年後に『ストリートファイターII』(カプコン/1991年)が出て、そこから格闘ゲームのブームが来ます。そのときは2号店に対戦格闘ゲームを多く置きました。格ゲーの北海道大会や全国大会の地区予選もやりましたね。今思い出しましたけど、ぼくがゲームセンターを最初に始めてから最後まで必ずつけていたノートがあるんですよ。毎日の各時間ごとに何人お客さんが来ていたかを記録していました。開店の10時から閉店の0時まで1時間ごとに。例えば10時3人、11時8人、いちばんピークの17時に43人とか、そんな感じで。最もすごいのは格ゲーのイベントをやったとき。推定250人くらいだったかな。普段でも混んでいるときは60から100人はいましたね。

―― 『ストII』は早くお店に入れていたのでしょうか?

石井 もちろん。うちは新しいゲームが出ると人気を予測してS・A・B・Cクラスという感じで区分けしていました。S・Aクラスに関しては発売したら即入れる。『ストII』もそうでしたね。最初に筐体とセットでしか出さないゲームでも金額を無視して買いました。基板だけ買えるまで半月とか1か月間、指をくわえて待ったことでお客さんが来ないよりは積極的に入れようという判断です。ただ判断を誤って、あまり人気が出ないゲームを筐体ごと入れちゃって慌てたこともありましたよ。2台入れたから慌てて1台売りました。こんなはずじゃなかったと思いながら。

90年代に起こった格闘ゲームブームのきっかけとなった『ストリートファイターII』(※画像はカプコンアーケードスタジアム)
©CAPCOM

―― 格闘ゲームのブーム前だと、やはりシューティングゲームの人気が高かったですか?

石井 人気はあったけど、1プレイが長くなっちゃうからインカムは低かったですよね。新作を入れて最初の数日は売上が上がるけど、途中から低めで安定してくる。だから、やっぱり売上で言ったらブームのときの格ゲーがいちばんでしたよね。1日に100円玉が150~200枚入って、それがずっと続きますから。シューティングやその他のゲームは最初は人気があって1日に8千円から1万円入ったとしても、どんどん落ちていく。ゲームセンターのゲームって東京などよほどの繁華街じゃない限り1台あたり1日に数千円入ればいい。1日に千円も入らないのが売上的にダメなゲームです。だから格ゲーブームの頃はゲーセンにしたら大儲けですよね。ただシューティングもコンスタントにインカムがあって、それが継続されるのならいいわけです。仮に1日に2~3千円入れば、月の売り上げが8万円くらい。当時の基板の値段が15~20万円くらいだから、数ヶ月売り上げが安定していれば元が取れて、その後は利益になりますから。

―― 人気が出たゲームがあったときに、2台や3台と数を増やすこともありましたか?

石井 お客さんの張り付き状況を見て、これは数が足りないとなったときに増やすことはありました。ただ人気が出てからではタイミングとして遅い。同様に他店も発注をかけているから肝心のモノがないということがあるんですよ。だからS・Aクラスと判断したゲームがあるときは最初から複数台を発注します。しかも数が足りないことを予想して、こちらの会社に3台、こっちに2台といった感じで複数の会社に割り振って発注をかけます。こういった最初の判断が重要ですね。『スーパーストリートファイターII』(カプコン/1993年)はそういった形で入れました。

―― だからAOUショーやアミューズメントマシンショー(AMショー)で現物を見ることも売上を予測するうえで大事なんですね。

石井 そうです。それとゲーメストとの繋がりもありましたから、例えば新宿のどこそこでやったロケテストで売上がよかったという情報をいただくこともありました。ゲーメストに限らず取れる情報はいろいろ集めましたけど、中にはガセネタを流すところもあるから判断に気をつけていました。いちばん事前の判断が難しかったのが『テトリス』(セガ/1988年)です。最初はS・A・B・Cで言ったらBぐらいかなと思っていたんです。そうしたら新宿で1日の売り上げが3万円だとか5万円入ったよという情報が流れて来て。それで1台うちに入れたらものすごい人気だった。すぐ2台目を発注しようとしたら、もうどこにも売っていない。しばらくは残念ながら1台で稼働させていました。そのうち2台にしましたけど。

―― あのときの『テトリス』人気を事前に判断するのは、ものすごく難しかったと思います。

石井 さっきも話しましたけど、ぼくのゲーセン人生でおいしい思いをしたもののひとつが『グラディウス』(コナミ/1985年)です。恵庭・千歳圏内でうちがはじめて『グラディウス』を入れました。当時13万から15万円くらいの基板がメインのときに、あれは30万円もしたんです。だけど絶対いけると思ってすぐ入れました。実はそのときバブルシステムのトラブルがあって、次の第2弾で出るはずのロットが出せなくて、出せたのが3か月後だったと思います。だから初回のロットを買えなかった店では『グラディウス』を置けなかった。それで恵庭ではうちが独占という状態になったんです。恵庭の「NTK」に『グラディウス』があるぞということでけっこうな数のお客さんが来ました。

―― 当時ならではのお話ですね。

石井 『グラディウス』の前に『ツインビー』(コナミ/1985年)が出たんですよ。『ツインビー』もバブルシステムでしょ。あれも値段が高かったんですけど、そのときに仲良くしていたコナミの人が「『ツインビー』もいいんだけど、次に出るゲームはもっとすごいよ」とこっそり教えてくれたんです。他の店はそんなことを知らないから、バブルシステムは値段が高いので『グラディウス』は様子見だったんですよ。そうしているうちに人気が出ても初回のロットがなくなっちゃって、しかも第2ロットはトラブルで当分出る見込みなしということになった。だから最初に『グラディウス』を入れた店は第2ロットが出回るまでの約3か月間、みんなウハウハでした。『ツインビー』が85年の3月の頭に出て、『グラディウス』が5月。『グラディウス』がどこのゲーセンにも普通に入り出したのが夏でしたからね。

『グラディウス』は稼働開始当時、「NTK」以外に近隣のゲーセンに置かれていなかったので、隣りの千歳市からもプレイヤーが集まるほどの人気となった(※画像はグラディウス オリジン コレクション)
©Konami Digital Entertainment

―― 事前にメーカーの人から情報を得られたのは大きいですね。

石井 今考えると、ぼくのゲームセンター経営人生はやっぱり情報ですね。その情報のもとは人ですよ。メーカーの営業さんや他社さん、札幌のディストリビューターさん。人対人で仲良くしました。それで、いろいろな情報交換ができる。自分がオーナー社長だからこそできる技ですよね。

「NTK」閉店に至る経緯

―― 閉店のお話もお伺いします。

石井 まず1号店は1994年にやめています。1989年に2号店がオープンして同時営業をしていましたが、1号店の売上が落ちていったんです。1号店単独でやっているときの売上が月に300万円くらい。2号店をオープンすると、そちらはすぐ400~500万円の売上になりました。その代わり1号店は100万円あるかないかくらいまで落ちた。しばらくそれでやっていたんですけど、1号店はどんどんジリ貧になっていって、単価も上がらなくて月に50~60万円まで落ちちゃった。50~60万円だと家賃・電気代・人件費を考えると儲けがないんですよ。それで1号店をやめました。経営資源を集中するために2号店だけにしたということでもありますね。2号店のほうは最大で月に約1000万円まで上がりました。コンスタントに400~600万円はいつも出ていましたので、当時の人口が6~7万人だった恵庭市のゲーセンということを考えたら上出来じゃないでしょうか。

―― その2号店も閉店になるわけですが、閉店されたのはいつですか?

石井 1999年の3月でやめています。やめた理由は、売上がどんどん落ちてきたことのほかに、いちばん大きな原因は当時の大型機が買えない値段になってきたんですよ。以前の『アウトラン』や『ダライアス』(タイトー/1987年)は百数十万円くらいでしたよね。ところがその頃になると200~300万円くらいの機械がどんどん出てきた。しかも中には人気が出ないものもあって。大型機は値段が高いから、元が取れないとなるとリスクが大き過ぎる。それと同時に格闘ゲームの人気が落ちてきたというのもあります。それと「プレイステーション」ですね。昭和の時代から平成の初頭って、業務用機と家庭用機でレベルが違ったじゃないですか。それがプレイステーションが出てからは、家庭用機の性能が追い上げてきて、ゲーマーにしてみたら「わざわざゲーセンに行かなくても家でゲームが楽しめるじゃん」という感じになった。そういった要因がいくつも重なった時期ですね。

―― ナムコの「SYSTEM11」というプレイステーション互換基板がありましたし、セガの「ST-V」もセガサターンの互換基板でした。それらの登場によってアーケードゲームと遜色ないゲームを家庭用機で遊ぶことができた。また、80年代のアーケードゲームの家庭用機への完全移植が多くなってきたのも90年代中期からですよね。

石井 やめる最後の1年の売り上げについて言うと、それまでは1か月で300~500万円くらい、いつもあったんです。それが最後の1年はいいときでも300万出なくて200何十万円しか出なくなった。やめる直前の売上は150万円でしたね。150万だと赤字なんですよ。電気代だけで毎月40万円かかっていましたから。家賃も約40万で、家賃40万・電気代40万で80万円でしょ。人件費も多いときは月250~300万円近く払っていたんですけど、売上が落ちると払えなくなる。それでアルバイトを減らしていって、最後は2人だけに絞って。それと売上が落ちると新しい製品が買えなくなっちゃうんですよ。その売上が落ちる曲線を予測すると、この状態で続けていたら大赤字になるなと思った。

―― そこまで売上が落ちたんですね。

石井 うちがやめる2年ぐらい前までは元が取れない基板は滅多になかったんですよ。でも最後の1年は元が取れない基板がけっこう出てきたし、新製品を入れてもお客さんの反応がイマイチというのが多くなりました。それで1999年1月、お正月が終わった時点で判断して、じゃあもうこの春でやめようと思ってその年の3月に2号店もやめました。やめてから夏くらいに東京で取引していた業者さんに挨拶したときに、「石井さん、すごい」って言われたんです。どういうことかと言うと、店をスムーズに畳めたから。売上がマイナスになってにっちもさっちもいかなくなって破産・倒産してやめるんじゃなくて、パッとやめられたんだねって。やめたのが3月で、その後ほかの業者がバタバタ倒産していった。ぼくは余力のあるときにやめたんで、借金も何もない。千葉でのリース時代からずっと無借金経営で、1回も銀行からお金を借りてやったことはないです。やめたときに残っていたゲーム機をいくつかの業者に売って、そこで得たお金を使って恵庭でマージャン屋を開店することになります。

―― 1996年がゲーセンの数のいちばんピークだった年とよく聞きます。2号店を閉店された99年はその3年後だから、急激な変化ですね。

石井 ゲームで言うと人気のピークは『バーチャファイター2』(セガ/1994年)です。『ストII』じゃなく『バーチャ』。うちも売り上げの最大ピークが『バーチャ2』のときで月の売り上げが1000万円を超えていました。その後急速に落ちて、ナムコで言うと『鉄拳2』(ナムコ/1995年)までで、『鉄拳3』(ナムコ/1997年)からは売上が落ち始めた。業務用NEOGEOの「MVS」も途中まで売上が良かったけど、2号店閉店の頃はもう売上が落ちていました。1998年で売上が良かったのは『beatmania 2ndMIX』(コナミ/1998年)とその次に出た『beatmania 3rdMIX』(コナミ/1998年)くらいですかね。『Dance Dance Revolution』(コナミ/1998年)は店に入れないで終わったんですよ。

―― 音ゲーの人気が高かった時期ですね。

石井 ただ、音ゲーも操作の難しいものが増えてきて、ゲームの入り口として一般のお客さんが付いていけない感じでした。ゲームの裾野が広ければ広いほど、たくさんのお客さんが来るんですよ。だから『テトリス』がいちばんいい例じゃないですか。わかりやすいから誰でもすぐできるし、しかも奥が深くてやめられないしおもしろい。そういうのは当たる。でも、当時は一部のマニアだけしかできないようなゲームが増えてきた印象が強かった。一方で、家庭用ゲーム機の性能もどんどん上がってきて、結果としてゲーセンのお客さんは減っていく。やめるまでの最後の1年はゲーセン業界がダメになるのを目の当たりにしていて、毎日家で鬱状態でした。19歳から千葉でスタートして、1999年は36歳でしたけど、それまで頑張ってしがみついてここまで来た業界、もう1回花が咲かないかなと思ったけど、でも逆にそれまで経験してきた業界の実情から判断するとこれは無理だということでやめました。本当に悩みました。眠れなかったときが何回もあります。業界の良かったときを経験しているが故ですよね。でも業界を知っているからこそ、損失なしでやめられたのも事実です。

石井さんにとって強く印象に残っているゲーム

―― 今日は千葉県で経営されていた頃から恵庭の2号店閉店まで、ゲーセン経営者としてのお立場から主に売り上げをキーワードにいろいろとお話を伺いました。経営者の視点を外したうえで、石井さんの中で印象に残っているゲームがあれば伺いたいのですが。

石井 いちばんは、やっぱり『ストII』シリーズですね。二番は『バーチャファイター』。やっぱり格ゲーになっちゃいますね。遊んでいたみんながムキになって両替機と筐体の間を往復する。それくらい熱く盛り上がっていました。うちは対戦台が向かい合わせの形だったから、プレイ中は向こう側にいる対戦相手が見えないじゃないですか。決着がつくと、あるプレイヤーがたまに首をのばして相手の顔を覗き込むんです。すると見られた相手がすごくムカついて怒るんですよ。それで、なおさら火がついたりしてね。幸い、うちは実際に殴り合いの喧嘩になるようなことはなかったですけど。でもそこまで熱くなって、操作するキャラクターに自分の感情を込めるほどのめり込ませるパワーがあったゲームということですよね。あの頃は自分でもプレイしましたけど、ゲーマーのみなさんのレベルが高すぎて、自分はお呼びじゃないなという感じでした(笑)。上手い中学生のレバーさばきは、すごかったですから。

―― 今振り返ると『ストII』と『バーチャ』の人気は、かなり突き抜けていましたよね。

石井 次元が違うゲームでした。ほかにぼく個人でいちばん好きなゲームは『テトリス』シリーズです。ゲームセンターをやめた後にマージャン屋の経営を始めるのですが、待合所にエアロシティ筐体を1台置いたんです。風営法に引っかからない売り場面積に対する筐体の台数というのがあって、そのときは5坪の場所に筐体が1台だと風営法的に問題ないわけです。最初は『テトリス ザ・グランドマスター』(カプコン販売・アリカ制作/1998年)、その後は『テトリス ジ・アブソリュート ザ・グランドマスター2』(彩京販売・アリカ制作/2000年)の基板を入れました。隣に両替機も置いて1プレイ50円でやっていたんですけど、けっこう人気があって1日数千円、月にしたら数万円入りましたので、いいお小遣い稼ぎでしたよ。マージャン荘をやっていると卓の時間貸しがあって、お客さんが朝までいるとこっちはやることがないんですよ、だからその間に、ぼくも『テトリス』をひたすらやっていました。段位は「GM(グランドマスター)」には行かなかったけど、「S9」まで行きましたね。今でも腕に自信があります。

石井さんにとって印象深いゲームのひとつである『テトリス ザ・グランドマスター』(※画像はアーケードアーカイブス)
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―― 最後に、石井さんにとって「NTK」とはどんなものだったかを聞かせてください。

石井 自分の青春をかけた商売、自分の人生をかけた商売であったということですね。19歳から36歳まで17年やりました。残念ながら自分の本意じゃない形で終わって引退しちゃいましたけど、もし続いていたとしたら、ずっとやりたかったかなとは思います。

―― 今日は貴重なお話を数多く聞かせていただき、ありがとうございました。

インタビュー後にゲームをプレイする石井さん
インタビュー協力:GAMERSBAR lettuce702
北海道札幌市中央区南6条西3丁目第8桂和ビル4階
X(Twitter):https://x.com/gblettuce702
TEL:090-9757-1646
『アウトラン』筐体・撮影協力:旭川 高砂温泉
北海道旭川市高砂台8丁目1−235−15
X(Twitter):https://x.com/takasago_onsen
TEL:0166-61-0227

本インタビューにあたって、下記の皆様にご協力をいただきました。こちらにお名前を紹介させていただき、お礼を申し上げます。(敬称略)

 中川 剛
 佐藤 昌信(GAMERSBAR lettuce702 店長)
 ATS
 島貫 敬淑(旭川 高砂温泉スタッフ)

脚注[+]

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