我が青春のテレビゲーム
第三回:スペースインベーダーがやって来た!(その1)
前回からかなり間が空いてしまいました。体調を崩した後、新型コロナで籠りっきりになってしまい、体力ダウンで耐性が落ちているところに、思いっきり花粉症が上乗せされて例年になく長い休みを取ってしまいました。
さて、今回は1979年初頭。中学3年生の冬が舞台となります。
突然現れた侵略者
高校入試が近づき、進学校を決める最後の判断材料となる「模擬試験」が、高知市内で開かれることになりました。夏の短期講習同様、友人と参加することになった私は、
「試験が終わったら、ニチイに立ち寄ろう!」
と、テレビゲーム用のお小遣いを準備し、バスに乗り、路面電車に揺られ、試験会場へと乗り込んだのであります。夕方前には試験が終わり、意気揚々とニチイへと向かいました。
しかしながらこの時期、まだまだ新しいゲームタイトルが次々に発売されるというような時代ではありません。意気揚々と向かったものの、特に変わった様子も感じることができず、友人と溜め息をついたとき、そのマシンは目の前に現れたのです。
「すぺーす……いんヴぇえだぁぁ?」
それがタイトーの『スペースインベーダー』(タイトー/1978年)との出会いでありました。
アニメや映画、小説など、SF作品がブームの時代。「ゲームにまでも!」と筐体のイラストデザインに驚きつつ、画面を覗き込むと……。
「これは……タコ? イカ? もうひとつは何だ?」
画面に表示されているのは、筐体のイラストとは似ても似つかぬ、何だか可愛めのドット絵キャラクター(まだこの頃、ドット絵なんて呼び方をしている人はいませんが)。
タコとイカは即座にイメージできたものの、中央に位置するキャラクターがどうしても何かわかりません。
ただ、一列に並んで表示されているところを見て、
「『ブロック崩し』のように上の敵をやっつければいいんだな」
という基本的なルールだけは理解できたのであります。
……と、長く書いていますがここまでは一瞬。
筐体を見つけてから数秒程度。即座に100円硬貨を放り込んでしまうのがゲーム好きの悪い癖であります。
このとき、筐体のメーカー名が「ミッドウェイ」社だったと記憶しているのですが、筐体はタイトーのものと同じ。このあたり記憶がしっかりしておりません。
ただ、操作がレバーでなく、ショットボタンと同じ大型のボタンが2つ並んでいて、それで左右操作するという形でした。手が小さかった(今もなのですが)私は、片手で左右のボタンを押すことができず、
「えらいやりにくいなぁ」
と思ったものであります。
闇雲にショットボタンを押すも、目の前の「トーチカ」に当たってしまい、インベーダーの側にはまったく飛んでいかず。
「何だこの、ジャマなのは!」
と、やっているうちにインベーダーが降らすミサイルに当たって自機が1機消滅。
2機目は一番左端の壊れたトーチカの隙間を抜けてきたミサイルに当たって消滅。
3機目でようやく1体を倒すも、降ってきたミサイルが避けられず“ゲームオーバー”。
初プレイはわずか10点で終了したのであります。
その後、友人と交代でプレイを繰り返すものの、初プレイ同士なので当然まったく上達せず。ようやくトーチカは壊すものでなく、敵の攻撃を防いでくれるものという認識ができた程度でありました。
初めてUFOが飛来した時は、全員で大パニック。
「撃て!」
「狙え!」
で、爆発音が響いて自機がやられているという、まぁ初心者あるあるを当然のようにやっていたのでありました。
中学生ですから持っているお金も限られます。試験後に「ロッテリア」で食べようと別に用意していたお金までも使い切り、結果、最高得点は120点。
これ以上使うと帰りの交通費が足りなくなるということで、後ろ髪をひかれつつの退散となったのです。
帰りのバスの中で
「あのUFOって、どういうときに出てくるんだろう?」
「インベーダーの隙間を狙って撃つしかないのかな?」
「それより、インベーダーを全部倒したらどうなるのかな?」
「ゲームオーバーになるんじゃない? スコアも4桁しかなかったし」
「いや、『ブロック崩し』も2回ブロックが出てくるから、もう1回は出てくるんじゃないか?」
なんてことをワイワイと話しながら、高知市から安芸市の自宅へと戻っていったのであります。
この日、もう1つお気に入りになったゲームがありました。
それが『ジービー』(ナムコ/1978年)でした。
友人が『インベーダー』に熱中している間に見つけたカラフルなアップライト筐体。ちまっとしたボタンとボリュームコントローラが大きなアップライト筐体に不釣り合いと感じながら、その後のナムコマシンのデザインにつながるポップな、黄色やオレンジ、赤を基調としたイラストとデザインにココロが踊りつつ、友人がゲームオーバーになる頃には私もゲームオーバーになっていたのでした。
その後、私は、高校入試で高知追手前高校へと進学。
安芸市から、既に高知市内に引っ越していた両親のもとへと住まいを移します。
しばし学業と私生活のバタバタに追われ、2ヵ月程度の間テレビゲームから離れる生活となります。
けれどその間に、かの侵略者は、本当に日本中を侵略していたのでありました。
© TAITO CORPORATION 1978,2020 ALL RIGHTS RESERVED.