アーケードゲームが輝いていた時代を駆け抜けた男! 坂本慎一氏インタビュー 前編

会社でリリース前の『マリオブラザーズ』にハマる

▲「作る側になってもゲーセンは毎日のように通っていた」と言う坂本氏

坂本 当時のテーカンには販売部門があって、ゲームセンターに筐体の供給もしていたんですよ。リリースの1週間くらい前にはゲーセンに納品する『マリオブラザーズ』(1983年/任天堂)が運び込まれていて、プレイさせてもらったらおもしろくてね。家に帰らないでずっと遊んでいるような感じだった(笑)。マリオブラザーズの2P(同時)プレイは当時斬新でしたね

大堀 当時は画期的でしたねえ。2人で同時に遊ぶのかって。

坂本 画期的だった。

大堀 それまでのアーケードゲームって、交代で遊ぶものでしたよね。唯一同時プレイできたゲームは『スペースウォー』(1979年/レジャック)くらいかな。通称は『カメレオンアーミー』。

坂本 ああ! 『カメレオンアーミー』 ね。

大堀 あれを最初に見たときは「同時に遊べるのか! すごい!」と思ったんだけど、フィールドの敵を倒した後はプレイヤー同士で殺し合いになるという。

坂本 そうそう。

大堀 それが何か解せなくてね。

坂本 協力プレイじゃなかったですからね。

大堀 うちらゲーセン軍団の中では「2人同時プレイって結局ダメじゃん!」ってイメージになっていた。なのに『マリオブラザーズ』がイメージを変えるんですね。「『マリオブラザーズ』は協力できるんだ。すごい!」って。

坂本 当時としてはすごいゲームだった。しかも、任天堂はその後がうまかったですよね。ファミコン(ファミリーコンピュータ)のローンチタイトルにした。ローンチだから家でプレイしたくてファミコンを買いました。家で妹とずーっと遊んで。妹はカモにしかならなかったですけど(笑)。それでもだんだんうまくなってくるから、よくできたゲームでしたね。

入社1年で開発課から工場勤務になってしまう

▲坂本氏に工場勤務の時代があったことを知り、驚く大堀所長

坂本 当時のビデオゲーム開発はまだ黎明期だからセオリーもなにもないし、自分たちがやっていることが正しいかどうかも分からないという時代なので、誰も評価できないんです。できるかできないか分からないけどやってみよう、みたいな感じで作っていたんで、自由にのびのびと開発していましたね。

メモリ増やしたいとかクロック上げてほしいとか、ハード屋さんとのせめぎ合いについてもコンシューマーにはない要素で楽しめたし、良かったですね。でもその後に僕は工場に飛ばされてしまったんですよ。

大堀 その話は初耳ですね。いつごろですか?

坂本 入社して1年経たない頃かな。「飛ばされてしまった」と言うと語弊があるかもしれませんが、工場が繁忙期で大変だから手伝ってくれと言われて、千葉県下総中山にある工場に通うことになったわけです。いつ戻してくれるのかなって思いながら働いていたんですけど、戻してくれないんですよ。ずっと。

大堀 「ずっと」って…どれくらいいたんですか?

坂本 もう覚えてないけど、たぶん3カ月から4カ月くらいかな。

大堀 それはずっととは言わない!

坂本 いや、当時は若いから。自分の中ではずっと、って感覚だったんです。

大堀 人生のうちのたった3カ月だよ(笑)。

坂本 だって開発の仕事じゃないし机もないし。工場でやっていたことは筐体の組み立てとかで、ジョイスティックの結線ハーネスにハンダ付けとかいろいろやっていたんですよ。パートのおばちゃんたちと一緒に内職みたいな感じで。あとは力仕事が多くて、モニターをマウントするとかアセンブリ作業みたいなこともやっていました。

大堀 僕が最初に坂本さんにお会いするよりも前の頃ですよね。

坂本 前です。入社してすぐに飛ばされたようなものだからね。結局、工場から戻るきっかけになったのは石塚さんなんですよ。石塚さんが「坂本を戻してやりなよ」みたいな話を当時の課長さんにしてくださったおかげで、開発課に戻れたという。あそこで戻れていなかったら、僕はこの場にいないだろうな。

大堀 そういうことがあったんですねえ。

坂本 だから人生分からないですよね。分からないというか、元をたどれば別にゲームを作りたかったわけじゃないし。

大堀 ゲームで遊びたいだけだよね。

坂本 そう。遊びたいだけっていう動機からゲームを作ることになって、さらに工場で筐体を作る方に行っちゃったわけだから、なんかポリシーがないんですよね。結局ノンポリなんですよ。仕事があれば何でもいいんです。

大堀 仕事があればじゃなくてゲームができればでしょ。

坂本 ゲームができればね。

開発現場復帰からテーカンを退職するまで

▲当時の試作ゲームやプロトタイプの話を次々と語る坂本氏

大堀 そんなことがあって、また開発に戻ってこられたと。戻ってきてからは何をされていたんですか?

坂本 戻ってきてからは『SENJYO(センジョウ)』(1983年)のサウンドドライバーを作ったりとか、プログラムを書いたりしていましたね。

大堀 じゃあ、僕が坂本さんと初めてお会いしたのは(開発課に)戻ってきたくらいの頃ですね。

坂本 そうですね。あとは試作をやっていました。当時だと『アウ-Au-※01アウ-Au- : 未発売のシューティングゲーム。開発基版は1枚しか現存しておらず、長らく幻のゲームと言われていた。の試作を手伝っていましたよ。

大堀 『アウ-Au-』はついこないだ発掘されましたね。

坂本 発掘されましたねえ。実際に遊んできましたよ。我ながらさえてないゲームだなと思いました(笑)。

大堀 でも当時としては色がきれいでしたよ。

坂本 大堀さんも当時、うちの会社でご意見番としてテストプレイしていたじゃないですか。

大堀 当時ね。一応ロケテストはやりましたからね。

坂本 ロケテストしましたね。アドバタイズのデモ音だけが虚しく響くようなゲームでした。「
BGMが鳴らないな? なんだ、誰も遊んでないからか!」って(笑)。そんなゲームでしたね。

あとは『ボンジャック』になる前の試作ゲームにかかわりました。そのバージョンでは『パンチ』っていうタイトルだったんですけど、そのUIのところをやっていました。キャラクターが、「ぐッ」と押せるボールなんですよ。押すとボールが潰れて、離すタイミングでジャンプ力が変わるみたいな操作感。『ボンジャック』になると変わってしまうんですけど、そういった感覚とかレスポンスを試すみたいなことをやりましたね。

大堀 とりあえずサンプルから作っていくやり方ですね

坂本 あとは『スターフォース』(1984年/テーカン)かな。『スターフォース』は僕も少し絡んでいて、一部のプログラムをしたりサウンドをやったりしました。でもその途中で会社を辞めちゃったんですよ。

大堀 飽きちゃった?

坂本 飽きちゃったわけじゃなくて、当時いろいろと思うことがあって。このままこの会社にいていいのかなって考えていた時に、(テーカンの開発課長だった)琴寄さんから「会社を辞めて新しい会社を作るから。お前も来るか?」とおっしゃっていただいて。それが退職するきっかけになりましたね。


次回予告

16歳の若さでテーカンに入社した坂本氏。始めの頃こそ楽しく働けていたものの、さまざまな体験をし、悩み始めた頃に新しく設立する会社に誘われる。その会社こそ、ジャレコブランドでゲーム開発を行っていたNMK(当時は日本マイコン開発)だ。次回は、新天地となったNMKでの思い出を中心にお話を伺っていく。次週公開予定。

坂本 慎一 氏
16歳でゲーム業界に入ってから30年以上の長きにわたり、プランナー、ディレクターを経て現在はプロデューサーとして活躍しているベテランクリエーター。テーカン(後のテクモ、現 コーエーテクモゲームス)、NMK、ウエストン・ビット・エンタテインメント時代に多くの有名作品に携わっている。代表作は『SENJYO』(1983年/テーカン)、『アーガス』(1986年/ジャレコ)、『ワンダーボーイ モンスターランド』(1987年/セガ)など。現在は、あまた株式会社制作2部部長。

脚注 +