『乗換案内』のジョルダンのルーツはアーケード開発だった? 前編
不確定な要素があったほうがゲームはおもしろくなる
――皆さんはゲーム開発において、どのような部分で開発に参加されていたのでしょうか?
佐藤 ニチブツに1人、木島くんというできる企画屋がいたんですよ。その彼とうちの本田と二人三脚でほとんどやっていました。作っている時には好きなゲーム開発をしていたわけだから、楽しんでやっていた面はあるんだろうけど、前職の頃にテストプレイでゲームをやっていたときに(社内の人間から)「お前らゲームやって遊んでるんじゃねえよ」と言われていたことが、いまだに印象に残っていますね。「お前らなんかよりよっぽど儲けさせてやってるんだぞ、コノヤロウ」といった感じで。
うちの会社の古株の人間は、みんな一度はゲームの開発を経験しているのですが、やはりこういうものには向き不向きがありましてね。後に『乗換案内』のエンジンを作った坂口京というヤツがおりまして、彼は現在非常勤の役員ですが、やはり過去にゲームの開発もやっていました。ただ、ゲームはきちっとしたヤツが作ると今ひとつおもしろくならないんですよ。不確定な要素があったほうがゲームというものはおもしろくなるものでして、『クレイジー・クライマー』で勝手に横に移動するときの挙動も、あれはバグですからね。
前出の『ムーンクレスタ』『クレイジー・クライマー』は本田がメインでやっていたのですが、彼が作ったものはどれもおもしろかったですね。ちなみに、ほかのムーンシリーズは本田以外のいろいろなスタッフに振り分けていました。
――ニチブツさんとはどのあたりまでゲーム開発をされていたのでしょうか。
小田 『ムーンベース』(1978年)、『ムーンエイリアン』(1979年)あたりは違いますが、『ムーン~』シリーズはずいぶんやりました。自分が中央にいて上下から敵が出てくるやつとか…。
見城 『ムーンレイカー』(1979年)ですね。
小田 そうそう、『ムーンレイカー』。『ムーンレイカー』をやって、その次に『ムーンクレスタ』を作ってから『クレイジー・クライマー』という順番だったはずです。
見城 『フリスキー・トム』(1981年)は御社でしょうか?
佐藤 『フリスキー・トム』もウチでやりました。固定画面のちょっとパズルっぽいゲームですね。ほかには『ワイピング』(1982年)とかですかね。
大堀 『ラジカルラジアル』(1982年)、『ダチョラー』(1983年)、『悪戯天使』(1984年)、『テラクレスタ』(1985年)あたりはどうでしょう?
佐藤 うーん、その辺はウチではないです。
X68000を使って専用ゲーム開発ツールを開発
――ハードウェア(基板)はすべてニチブツさんから提供を受けていたのでしょうか?
佐藤 ハード周りは全部ニチブツさんから提供を受けたものでやっていました。その上で、動作するソフトウェアがウチの担当分野でして、開発ツール類も含めてわが社で作っています。
後にスーパーファミコンなどの開発受諾もすることになるのですが、メーカー純正の開発ツールってソニーのNEWS(ニューズ(*01))じゃないですか。あんなものを使っていたら1セットで軽く数百万円かかってしまう。なので、X68000(*02)とかを使って専用の開発ツールを自分で作っていました。X68000ならスプライト(*03)のデータ制作もできますし、何よりハードが市販品だけに安く作れる。下請けだとなかなか開発ツール自体も潤沢に回ってこないから、自然とそんな開発環境の整備まで自前でやるようになったんですよ。
そんな折に、エニックス(*04)の福嶋康博さん(*05)がゲームの学校を作ることになりまして、それなら安く学校教材用に「ウチの機材一式納めますよ」ということになって、エニックスゲームスクールにわが社の開発機材を納入したこともありました。ほかに、日本電子専門学校にも同様のシステムを納めています。
後になるとソニーさんとかが1台の単価を下げた開発機材を発売するようになりましたが、そういったものがまだなかった時代には需要が高かったですよ。この辺はゲーム開発というより、まさにシステム屋としての事業領域ですね。そうやって育った人材で新たなゲームの自社開発をおこなうなど、いろいろ考えていることはあります。
――自社タイトルではどのようなものがありますか?
佐藤 わりと売れたタイトルとしては『ハムスター倶楽部』(GB/1999年)という作品があります。ハムスターの育成シミュレーションなのですが、当時のハムスター人気もあり、小学館さんも『とっとこハム太郎』を投入してくるといったこともありました。
また、『スラムダンク』で知られる井上雄彦先生にキャラクターを描いていただいた『1 on 1』(1998年)というゲームも作りました。井上先生のお兄さんがマネージャーをされていたんですが、わが社の『乗換案内』の愛用者だったことから実現したんです。「(元バスケットボール選手の)マイケル・ジョーダンとジョルダンって音の響きが似てるよね」なんて冗談言いながら(笑)。
――ゲームの開発では、プログラムのほか、グラフィック、サウンドまですべて社内で作られているのでしょうか?
佐藤 サウンドは社内でやっていなくて、外注でしていました。今では偉くなってしまいましたが、ミュージシャンの佐藤天平くん(*06)という子がいて、彼に任せていましたね。グラフィックは、ニチブツさんとの共同開発もありましたが、社内でツールを作ってからドット打ちを外注のデザイナーに振ることが多かったですね。プログラムはもちろんすべてウチでやっています。
――企画やディレクションはプログラマー主導と考えてよろしいのでしょうか。
佐藤 昔は1人で全部やるような時代でしたから全部一緒ですよ。『クレイジー・クライマー』のときは本田と企画の木島くんがあれこれ相談しながらやっていたみたいでしたね。僕は一応管理する立場だから、一通りの仕様は把握していましたけど、この頃はApple Ⅱにハマっていたから、そっちのゲームばかりやってた(笑)。
大堀 逆に言えば、どこにでもありそうなオリジナリティのないゲームではなく、自由な発想を生み出す土壌になっていたとも言えますね。『クレイジー・クライマー』とかは自由な発想がないと生まれませんから。
佐藤 本当に本田の作ったゲームはどれもおもしろかったです。『クレイジー・クライマー』以降、次第にマネージメントが業務の中心になって、プログラムの現場から離れるにつれて「どうして俺はプログラムができないんだ」と不満を漏らしていたくらいですから。
一同 (笑)
――ちなみに、皆さんはプライベートではゲームされていたんでしょうか?
佐藤 先にも申し上げた通り『スペースインベーダー』は相当やりましたが、ほかのタイトルで熱中したものがあるかと言われると、それほどないですね。
小田 私も同じです。『スペースインベーダー』以外はそれほどといった感じでした。むしろ、コンピューターでどれだけおもしろいものが作れるかというエンジニア的興味のほうが勝っていたと思います。プログラムのほうが楽しかったですね。
次回予告
2本レバーという特殊な操作系を採用しながらも直感的な操作が可能なゲームシステムと、ほかに類似タイトルが一切存在しない唯一無二のビル登りアクション『クレイジー・クライマー』。本作の開発に至った経緯と、それにまつわる裏話を本項初公開でお届けする。次週公開予定!
ジョルダン株式会社
1979年にジョルダン情報サービスとして創業、1989年に現社名に商号変更。1994年に『東京乗換案内 for Windows 3.1』『乗換案内全国版 for Windows 3.1』を発売以来、乗り換え情報サービスという新分野を切り開き、同種のサービスの代名詞となる。一方で、システム開発・販売やゲーム開発など、多数のコンピューターソフトウェアおよびサービスを展開している。東京証券取引所ジャスダック上場。
©Jorudan Co.,Ltd.
脚注
↑01 | NEWS : ソニーが1987年に発売したUNIXワークステーション(高性能業務用コンピューター)。スーパーファミコンの開発用機材として採用された。 |
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↑02 | X68000 : シャープが1987年に発売したパーソナルワークステーション。当時のアーケードゲームをしのぐほどの突出したグラフィック能力を備えており、多数のアーケードゲームが移植された。 |
↑03 | スプライト : アニメのセルのようにキャラクターを多数重ねて表示する映像技術。3Dポリゴンが一般化するまでは、これの表示枚数や色数がゲームの表現能力を左右した。 |
↑04 | エニックス : 『ドラゴンクエスト』シリーズ(FC他/1986年~)を代表作に持つパソコンおよび家庭用ゲームメーカー。2003年にスクウェアと合併し、スクウェア・エニックスとなった。 |
↑05 | 福嶋康博 : エニックスの創設者であり初代代表取締役。現在はスクウェア・エニックス・ホールディングス名誉会長。 |
↑06 | 佐藤天平 : 『魔界戦記ディスガイア』シリーズ(PS3他/2003年~/日本一ソフトウェア)をはじめ、多数のゲーム音楽を代表作に持つ作曲家。ゲームだけではなく映画やアニメなどの楽曲も手掛けている。 |