西谷 亮インタビュー Part1

  • 記事タイトル
    西谷 亮インタビュー Part1
  • 公開日
    2020年01月10日
  • 記事番号
    2472
  • ライター
    IGCCメディア編集部

対戦格闘ゲームの扉を開いた男 前編

今や完全にひとつのジャンルとして定着した感のある対戦格闘ゲーム。そのブームの先駆けとなったのは『ストリートファイターII』(1991年/カプコン)であることに異を唱える者はいないだろう。この作品は、熱狂的なファンを生み出し、家庭用ゲームに押されて沈黙しつつあったゲームセンターが息を吹き返すきっかけを作り出した。
今年最初のインタビュー「クリエイターズ・ボイス」では、この『ストII』を作り、新たなジャンルの扉を開いた男――西谷 亮氏にじっくりとお話を伺った。
全5万文字にも及ぶ特濃インタビュー。「前編」の今回は、西谷氏の幼少の頃からカプコン入社までを語っていただいた。

【聞き手】
大堀康祐(ゲーム文化保存研究所 所長)
【聞き手・資料提供】
石黒憲一(娯楽産業研究家)

化学に興味のあった幼少期

インタビューを行う応接ルームにはPS4が置かれており、『ファイティングEXレイヤー』(2018年/アリカ)が立ち上がっている。

『ファイティングEXレイヤー』の対戦に興じる大堀所長(左)と西谷氏。

大堀 何これ。もしかして、俺にこれで西谷さんと戦えって?(笑)

西谷 受けて立ちましょう(笑)!

大堀 って勝てるわけないじゃん!

西谷 いえ、やってみないと(笑)。

(対戦スタート)

―― 大堀所長、ルール知ってます(笑)?

大堀 失礼だな(笑)! こう見えても結構『ストII 』(ストリートファイターII:1991年/カプコン)やってたんだよ! とにかく相手を倒せばいんでしょ?

西谷 プログレッシブタイプという、簡単な操作にもできますよ。

―― 波動拳コマンドが右入力+パンチボタンとかですね。

大堀 え、余計にわかんない。年寄りだから昔のままの操作でいいんだよ(笑)!

―― だそうです……。

西谷 (苦笑)

―― では西谷さん、余裕で戦っていらっしゃるので、プレイしながらこのゲームの「売り」をお願いします。

大堀 ちょ、ちょっと! 俺、1P側だと波動拳出ないんだけど!

西谷 あ、はいはい。(と、ジャンプしながら逆のサイドへ)

―― 所長、静かに遊んでてください(笑)。

大堀 ごめん……。

西谷 え~。このゲームの特徴というと、とにかく展開がめちゃくちゃ速いことですね。ダッシュを使いまくります。

大堀 こういうことですか!(と、ささっと操作)

西谷 甘いです。ダッシュパンチから、こうやってチェーンコンボに持っていって……。基本がこれですね。(と、大堀所長をボコボコにする)

大堀 勘弁してよ~……。

―― 所長、結構格闘ゲームやってたんですよね?

大堀 やってたよ。職場にあったからね。

石黒 ぼく、そのとき『ストII』の対戦用のハーネスを作らされましたよ(笑)。

―― あの……西谷さん、『ファイティングEXレイヤー』の解説を。

西谷 いや、余裕がなくなってきた(笑)。

大堀 おらぁっ! 俺だってキャンセル波動拳ぐらい出るんですよ!

西谷 あ、まずい(笑)!

大堀 よっしゃー! 勝ったー! 西谷さんに勝率10割!

石黒 え、もうやらないんですか。何て卑怯なんだ……(笑)。

大堀 よし、これで気持ちよくインタビューをはじめられる。

―― いや、インタビューされるのは西谷さんなんですが……。

西谷 (爆笑)

―― もう少し『ファイティングEXレイヤー』の解説を、と思っていたのですが……そちらについては最後のまとめのときにお願いします。では、インタビューのほうをはじめさせていただきます。

西谷 よろしくお願いします!

―― まずはじめに……どんなお子さんでしたか?

西谷 あははは(爆笑)。そんな昔からはじめますか! そうですね……私はもともと化学が大好きだったんですね。

―― 化学ではなく科学のほうですが、「子供の科学」(*01)という本もありましたね。

西谷 そうなんですよ! あの雑誌も夢中になって読みましたね。

―― 化学のどんなところに惹かれたのでしょうか。

西谷 とにかく実験するのが好きだったんです。たとえば……簡単なところでいうと二酸化炭素を作るとか。普通のやり方だと石灰に塩酸を入れればOKなんですけど、当時、普通に考えるとなかなか手に入りにくいものじゃないですか。

―― 塩酸とか使い方を間違えると危ないですしね。

西谷 そこでいろいろ工夫するんです。石灰は、お菓子に入っている乾燥剤で代用が利くな、とか。あとは塩酸か……と思って、あれこれ調べているうちにトイレの洗剤の「サンポール」が使えるぞ、と(笑)。

大堀 混ぜるな危険(笑)!

西谷 何だか子どもの頃って、そういうことばっかりしてたんですね。ゲームに出会うまでは、ずっと化学者になりたいって思ってたほどで。

大堀 ゲームに出会う前って小学生の頃とかですよね。そのときに化学者になりたいって考えてるだけでもすごいな……。

西谷 当時はかなり真剣に考えていて、元素の周期表とかも全部暗記したりして。

大堀 すげえ!

西谷 でもビデオゲームに出会ってすべてが変わりましたね。

―― やっぱり『スペースインベーダー』(1978年/タイトー)ですか。

西谷 そうですね。もちろん、それよりも前にもビデオゲームに触れたことはありましたが、『スペースインベーダー』がとどめみたいな感じでした。

―― となると、小学校5~6年生のあたりですか。

西谷 はい。その前だとエレメカかな。ああいうのも大好きで結構遊びましたね。そのさらに前だと……コマとかメンコとか鬼ごっこ、缶蹴り、かくれんぼとか、かな。遊びと言われるものは全部大好きで、今にして思うと、きちんとルールのある遊びが好きだったんじゃないかなと思います。

石黒 その頃からルールについて、いろいろ考えていたんですね。

西谷 当時はまだパソコンとか一般的ではなかったので、自分で考えたり工夫したりして、もっと遊びをおもしろくしようとは考えていたと思います。

―― では『スペースインベーダー』との出会いによって、違った形の遊びに夢中になることに……?

西谷 そうですね。でも、まだその頃はハイスコアを狙って、みたいなプレイはしていなかったと思います。単純に新しい遊びというだけで……。もちろん夢中になりましたし、名古屋撃ちみたいなテクニックを聞くと試してみようと思いましたし。ただ、なぜか今でいうところの「目指せハイスコア」というのはなかった。

―― ただ遊んでいるのが楽しかった、と。

西谷 そんな感じでしたね。

石黒氏の用意した基板を懐かしそうに見る西谷氏。

―― ゲームクリエイターの皆さんにインタビューし、昔の話をお聞きしていると、幼少の頃、パソコンというかマイコンでアーケードゲームを必死で模倣してその延長でゲームを作る職業に就いたという方々が多いのですが、西谷さんはいかがでしたか?

西谷 マイコン、すごい好きで憧れだったんですよ。でも、うちは残念ながら裕福じゃなくて買ってもらえなくて。それで仕方なくデパートのマイコン売り場でベーマガ(マイコンBASICマガジン)のプログラムを打ち込んだりはしていましたね。でもそこまでで、自分でゲームを完成させるようなことはありませんでした。あ、でも違う方法でゲームは作ってましたよ。

―― 違う方法?

西谷 たとえば方眼紙の上に迷路を書いて『パックマン』(1980年/ナムコ)を再現する、みたいなことはよくやってました。サイコロの目だけ動くとか、あるいは1ターンずつ敵と味方が順番に動いて、みたいな。

―― 今でいう「ローグライク」的なものを、その当時すでに!

西谷 あははは、そういうことになりますね。

長く遊べるゲームが大好き

大堀 当時、西谷さんはどんなゲームに夢中になってたんですか?

西谷 先日、これまでにリリースされたアーケードゲームのリストを眺めていてそれで気づいたことがあるんです。自分がどういったタイプのゲームが好きなのか。

―― それは非常に興味があります。

西谷 基本的に、私は長く遊べるタイプのゲームが好きなんですね(笑)。

大堀 ゲームセンター泣かせじゃないですか(笑)!

―― 大堀所長が言いますか……。

大堀 ごめん……。

西谷 それで思ったのが、ああ、私は古いタイプのスコアラーなんだな、と。つまりパターンを突き詰めて得点を究極まで稼いでというのではなく、体力勝負でいかに安定して長い時間遊べるのか(笑)。

大堀 6時間遊べるかどうか、ですね(笑)。

西谷 そうなんですよ。1コインで5時間遊べるか、10時間遊べるか。そういう部分を重視してたんだと、今頃になって気づきました(笑)。すべて、ってわけじゃありませんけど、当時長く遊べたゲームは今になっても好きなんですねぇ……。

―― 個人的には西谷さんといえばシューティングゲームをやり込んでいる人ってイメージを昔から持ってました。

西谷 ああ、シューティングも大好きです。

―― たとえば『ジャイロダイン』(1984年/タイトー)とか『テラクレスタ』(1985年/ニチブツ)とか『ギャプラス』(1984年/ナムコ)とか……。

『ジャイロダイン』のちらし (石黒憲一氏提供)

西谷 全部大好きで、全部やり込みましたねぇ。懐かしい。すべて1000万点コースで(笑)。どれも長く遊べて最高でした!

―― 何時間も同じゲームをプレイしていて飽きるというのはなかったんですか?

大堀 あるわけないじゃん(笑)! 途中で席を立つ人とか見ると、何でやめちゃうの?って思ったよね。もったいないって!

西谷 思いましたねぇ。私も全然飽きない人で……。だからその後、エンディングのあるゲームが増えてきたじゃないですか。そういうのをプレイすると、「何で俺がお金払ってるのに、勝手に終わっちゃうわけ?」って怒ってました(笑)。

―― さて、そうしているうちにプレイシティキャロット巣鴨店(1984年オープン。現在のnamco巣鴨店)がオープンするわけですが……。

西谷 はいはい。私も行きましたね。店内がすごく広くて。

―― その広さや交通の便もあってか、当時たくさんあったゲームサークルの方々が事あるごとに巣鴨に集まることが多かったですよね。西谷さんも竹中さん(*02)らと一緒に「闘幻狂」というゲームのサークルを立ち上げていらして……。

西谷 そうですね。でも、あのサークル、何で立ち上げたんだったかな……。いつの間にか「闘幻狂」ができてましたね。

大堀 実はね、ぼくは「闘幻狂」の最後のメンバーなんですよ。四年ぐらい前に入れてもらった(笑)。

西谷 たぶん、植村さん(植村伴北氏。VG2総本部長で、のちのゲーメストの初代編集長)がVG2というゲームサークルの集合体みたいのをやっていて、そこに所属するサークルが巣鴨の周辺でぼこぼこ生まれていたときに、そういう流れで作ったんじゃないかな。すみません、記憶が曖昧で。元々、竹中が「闘幻狂」を作って、私がそこに入れてもらったので、設立のくわしい経緯みたいなのはよく覚えてないんですよ。

大堀 「闘幻狂」最後のメンバーのぼくがこんなことを言うのもアレなんですけど(笑)。「闘幻狂」の仲間内で以前呑んだとき、「闘幻狂」というサークルは二つのサークルが合併してできた、って聞いたことがあるんですよ。

西谷 ああ、そうだ! 思い出した! そうでしたね。

―― その「闘幻狂」ですが、主にどこでどのような活動をしてたのでしょうか。

西谷 巣鴨キャロットにはいましたけど、あそこはいわゆる「晴れの舞台」。ハイスコアを出しに行くときの場所で(笑)。普段は、私は東武練馬ですし、竹中たちは川越が地元で、そちらで活動していましたね。まあ、東武東上線沿線って感じでしょうか。大山、東武練馬、川越、上福岡とか……あのあたりを行ったり来たりしてました。

石黒氏の用意した資料やグッズの数々。

大堀 以前、石黒くんに聞いたんだけど、なぜか東武東上線にはゲーセンが多い。

西谷 確かに多かったですね。どんな理由なんですか?

石黒 あの沿線はゲームのリース会社が多かったんです。その関係で、あの近辺にゲームセンターが増えていったのもあると思います。

大堀 だから、東武東上線の沿線にすごい魅力を感じてて、ぼくは高校受験のときにその近辺の学校も候補に入れてたんだけど、実家から片道2時間はさすがにきつくて断念した記憶があります(笑)。

―― その沿線の中でも一番魅力的だった駅はどこでしたか?

大堀 やっぱり大山だよね。

―― 即答ですね。

西谷 うん、確かに大山はすごかったですね。

大堀 だからさ、受験しに行った日、一駅ずつ降りてゲーセン見て回ったよ(笑)。おお、ここにもある!って感動して(笑)。しかも安いゲーセンが多かった。

西谷 そうですね。あと私の場合は、高島平方面にも足を伸ばしましたね。

―― そこまで恵まれた環境で、なぜプチ遠征を?

西谷 当時はゲーセンによって置かれているゲームが全然違ってたんですよ。高島平はセガのゲームや海外から輸入されたゲームが多く置かれていて、それを見に行きたくてちょっと遠くまで足を伸ばした感じですね。

―― さて、そうしている間に西谷さんはゲーム雑誌「Beep」(1984年に日本ソフトバンクが創刊したゲーム雑誌)でゲームライターとしてデビューすることになります。

西谷 そうですね。当時、魅力的なアルバイトでした。以前、朝の新聞配達のアルバイトをしてたことがあるんです。朝は弱くないので。でも、それに比べたらかなり楽な仕事だなと思いましたね。雨や雪の中、働かなくて済みますし(笑)。

―― なるほど。

西谷 あと、当時は結構ゆるい時代だったので、ゲームメーカーの開発の中に入らせてもらったりとか、そういうこともありましたね。

家庭用ゲームは嫌いだった(当時

―― アーケードゲームの記事ばかりで家庭用ゲームのほうは……。

西谷 いや、全然やってないんですよ。

―― それはどうしてでしょう?

西谷 今はそんなことないんですけど、当時は家庭用ゲームって大嫌いだったんです。

大堀 爆弾発言きた(笑)。

西谷 いや、当時ですよ、当時(笑)。

―― それはどうしてですか?

西谷 当時、アーケードゲームからの「移植」とは名ばかりのゲームが蔓延していたじゃないですか。あれが許せなくて許せなくて(笑)。あとはパッドですよね。あれが嫌で嫌で……。今の若い人たちは逆にパッドじゃないとダメって思うんでしょうけど、私は逆で、ジョイスティックじゃないと気持ちよくゲームができなかった。あ、これも当時の話ですからね!

―― はい、ちゃんと強調しておきます(笑)。

大堀 今はアーケードにもパッドが刺さる時代ですからね。

西谷 そうですね。

―― ではパソコンゲームとかはいかがでしたか?

西谷 そっちは結構好きでしたね。アーケードゲームを追いかけるんじゃなく、独自のゲームを追及している感じがして。

―― たとえば『ドラゴンクエスト』(1986年/エニックス)が日本中で大流行したわけですが、そのときもコンシューマで遊びたいとは思わなかったんですか?

西谷 それについては、いろいろあるんですよ(笑)。当時……当時ですからね、あの頃の私はリアルタイムで動いていないゲームには価値がないと思い込んでいたんですよ。当時、ですからね、当時(笑)。

―― 強調しておきます(笑)。

大堀 めちゃくちゃ偏見じゃないですか(笑)。

西谷 それでも、パソコンのほうで話題になっていたRPGって新しい概念だったじゃないですか。それで全然興味がなかったわけではなかったんですね。それではじめてその手のタイプのゲームを遊ぶことになって、『ドラクエ』発売のちょっと前だったかな、それが『ハイドライドⅡ』(1985年/T&Eソフト)だったんです。あれってリアルタイムに動くじゃないですか。だから、私にとって価値のあるゲームで(笑)。

―― 実際に遊んでみていかがでしたか?

西谷 話には聞いていたんですけど、実際に経験値をためるという行為をしてみて……これがめちゃくちゃ楽しかった(笑)。

大堀 いきなり偏見が消えた(笑)。

『ドラゴンクエスト』シリーズのパンフレット (石黒憲一氏提供)

西谷 そうこうしているうちにカプコンに入ることになって大阪に行ったんですね。大阪に行った直後は部屋も借りていないので、竹中の家に居候することになって。で、竹中はコンシューマ大好きで。

―― 当然『ドラクエ』も?

西谷 ええ、大好きだったんですね。でも、彼はRPGが好きなのに経験値を稼ぐのが大嫌いで。それで『ドラクエ』をプレイ中の竹中から、「この洞窟でレベルを上げとけ」と言われて……。

―― 居候はつらい!

西谷 リアルタイムじゃないゲームはゲームとしての価値がないと思い込んでいた当時の私にとって、それはすごい苦行だなと思ったんですけど……。続けていくうちに、これは非常におもしろいなと(笑)。

―― 洞窟しか遊んでないのに(笑)!

西谷 もう『ドラクエ』が大好きになっちゃって(笑)。そこから普通にRPGを遊ぶようになった感じですね。いやぁ、本当に食わず嫌いってよくないですよね。

―― そこで偏見が完全に消えたわけですね。

西谷 あ、『ドラクエ』といえばちょっとした後日談がありまして……。

大堀 どんなことですか?

西谷 あの頃のファミコンのRPGってパスワード方式じゃないですか。

―― そうですね。今のように簡単にセーブできず、そこまでのプレイの経過を「パスワード」という形で保存していました。

西谷 私ががんがんレベルを上げていたのを竹中が見ていて、「ちゃんとパスワードをメモっておけよ」と言われて、ああ、わかったと。

大堀 もしかして間違ってメモってたんですか?

西谷 そうなんですよ。でも、パスワードが違いますってエラーが出るんじゃなく、なぜかそのままプレイできてしまって。

石黒 すごい偶然ですね。

西谷 それで竹中が続きを遊ぼうとしたら、なぜか最後のほうまでストーリーが進んでしまっていて、しかもまだ取ってない重要アイテムを持ってたりして。竹中から「お前のせいで見たくない場面見ちゃったよ」と怒られて、彼はそれで『ドラクエ』をやめちゃいました。

大堀 それはきつい(笑)。

西谷 逆に私が、ちゃんと『ドラクエ』を遊ぶようになったんです。

―― ついに洞窟以外をプレイすることを許されたんですね(笑)。

西谷 それでわかりましたね。リアルタイムじゃなくても、おもしろいものはおもしろいんだと(笑)。でも『ハイドライドⅡ』がなかったら、経験値稼ぎのおもしろさには目覚めてなかったのかもしれませんね。

―― その頃は、すでにアーケードゲームでは『ドルアーガの塔』(1984年/ナムコ)が出ていましたが。その影響のようなものはありましたか?

西谷 ああ、あったと思います。当時、パソコンのゲーム以外で剣と魔法のファンタジーというのは珍しかったじゃないですか。ああいう雰囲気に感動というか、憧れというか、そういった感情は確かにあったと思います。あ、思い出した。私があの頃に出会った中だと、『ドルアーガの塔』ですね。エンディングがあって、「ふざけんな、勝手に終わらせんな!」と思ったゲームは(笑)。

―― 書いておきます(笑)!

西谷 当時は、です! でも『ドルアーガの塔』のおかげでしょうね。日本で剣と魔法のファンタジーが広まったのに一役買ってると思います。あ、『ハイドライドⅡ』で思い出した。

大堀 どんどん思い出してますね(笑)。

西谷 『ハイドライドⅡ』の敵って、確か「根性値」みたいのがありましたよね。体力がほぼなくなっても、ちょっと死ににくくなる感じの。

大堀 死ぬ間際に粘るみたいな?

西谷 そうです。それを『ストリートファイターII』でもオマージュしてみようかなと。体力がほぼゼロでもちょっとだけしぶとく粘るのは、『ハイドライドⅡ』の影響だったりします。

―― 内藤さん(内藤時浩氏。『ハイドライド』シリーズを作ったスターゲームプログラマー)に喜んでいただけそうです(笑)。

西谷 『ハイドライドⅡ』はBeep編集部で遊んでたんです。あとは……『ザナドゥ』(1985年/日本ファルコム)も遊んでましたね。

石黒 『ハイドライド』はⅡだけ、ちょっと異色な感じでしたね。

―― ああ、そういえば最後の謎というか、石像に魔法を当ててというのは、よっぽどあれこれ試さないとわからないですね。

西谷 あとⅢ! 重さの概念があって……面倒くさかった(笑)。漬物石とか勝手に持たされて動けなくなったような記憶があります。

石黒 Ⅲはお金を捨てていくゲームになりますよね、最後のほうでは。

西谷 懐かしい。まさか今日、こんなに『ハイドライド』の話をするとは思わなかった(笑)。

そしてカプコンへ入社

―― さて、そういった高校時代を送られていた西谷さんですが、急転直下と言いますか、1986年にカプコンにご入社なさいます。

西谷 そうですね。

―― 竹中さんが仲介されて、というお話はよく聞きますが……。

西谷 それに間違いないですね。竹中は新卒でカプコンに入社して、私は五月だったかな。中途採用という形で入社しました。ですので、竹中のほうが一ヶ月ぐらい先輩ということになりますね。

―― なるほど。

西谷 その頃、カプコンはゲームにくわしい人材を集めていたようで、「それならいい男がいますよ」、と私を岡本さん(岡本吉起氏。当時のカプコンの第三開発室の責任者)に紹介してくれて。その後、岡本さんから電話をいただいて、もう次の日には大阪に行ってました。

―― その当時、西谷さんは将来の身の振り方については、どのようにお考えになっていましたか?

西谷 さっきも言いましたように最初は化学者になりたいと思っていましたが、ビデオゲームと出会って、これだな、と。とにかくビデオゲームに関係した仕事に就きたいと考えるようになりました。

―― それは作るほうに限定しているわけではなく?

西谷 そうです。だから、Beepでライターの仕事をもらうようになって、それはそれでものすごくうれしかったですし。それにその頃は、単に原稿を書くだけではなく、編集の仕事も少しずつ手伝うようになっていたんですね。

―― では、竹中さんの仲介がなかったら……。

西谷 あのままずっとライターとか編集の仕事をしていたかもしれませんね。

CPシステム前期版の『ロストワールド』 (石黒憲一氏提供)

―― そういえば、当時、西谷さんと竹中さんがカプコンに入社したという話が一部のゲームマニアの間で話題になって……。

西谷 え、そうなんですか?

―― それで、岡本さんから「ゲーム作りは体力勝負だから、腕立て伏せを100回できたらカプコンに入れてやる」と言われたとか、そういうウワサが……。

西谷 (爆笑)

―― あの……これは真実……ではないんですか?

西谷 それは竹中です。ただ正確ではないですね。竹中は岡本さんから、腹筋と腕立て、スクワットを100回ずつできたらカプコンに入れてやるって言われたそうです(笑)。

―― おお、そうだったんですか! 長年の謎が解けました(笑)。では西谷さんは……?

西谷 やってないです。私は電話一本で(笑)。それにしても当時は、そんな感じでゆるかったんですけど、今みたいにちゃんと入社試験があったら、きっと二人とも落とされていたでしょうね(笑)。

―― それにしても、竹中さんすごいですね。

西谷 当時の竹中は腹筋とかバッキバキでしたよ。高校が体育会系のところだったので、そこでずいぶん鍛えられていたんでしょうね。

―― 岡本さんも体育会系の方だったんでしょうか?

西谷 そうですね。会社に遅刻すると、腕立ての姿勢のままで30分静止とか平気でやらされましたよ。これが、すごい効くんですよ。汗がだらだら出てきて(笑)。あとはケツバットとかもよく飛んできましたね(笑)。

―― 今だと、ちょっとやばい感じですね(笑)。

西谷 かなりまずいですね(笑)。

―― さて、めでたくカプコンへとご入社なさった西谷さんですが、いきなりゲームクリエイターとなって不安のようなものはありませんでしたか?

西谷 最近、歳を取って落ち着いてきたこともあって冷静に考えられるようになってきたんですけど、当時は何も考えてなかったですね。ただのバカでした(笑)。

大堀 いやいやいやいや、そんなことはないでしょ(笑)。

西谷 だから不安とか一切なかったんですよ(笑)。むしろ、自分がゲーム会社にいるってことが楽しくて仕方なかった。

―― あちこちで耳にしますが、西谷さんはカプコン初の企画専門職だったということで間違いないですか?

西谷 はい、合ってます。岡本さんのコンセプトが、企画という職を独立させるべきというところにあったので、私と竹中が仰せつかった感じですね。

―― ああ、西谷さんだけではなく竹中さんも企画専門だったんですね。

西谷 そうですね。当時、企画専任ってあんまりなかったんですよ。デザイナーの方が兼任していたり、プログラマーがやっていたりと。なので、そこを分離して企画職を独立させようと岡本さんは考えていたんですね。

―― 岡本さんといえば、シナリオ制作を中心に活動していた会社「フラグシップ」も設立なさっていましたね。

西谷 はい。先見の明がある方なんですよ、岡本さんは。

―― それまで西谷さんは、カプコンさんとは接点はなかったんですか?

西谷 あ、それで思い出しました。竹中がカプコンに入った直後か、内定をもらった時期だったかな。カプコンが『魔界村』(1985年/カプコン)のコピー基板を作っている業者を訴えることになったのだけど、そのための資料として『魔界村』の最初から最後までを収録したビデオを撮りたい、と。それで私に白羽の矢が立って……。

大堀 じゃあゲーマーとしてアルバイトの形で。

西谷 そうですね。それがカプコンとの最初の接点ですね。

こちらも石黒氏の資料群

大堀 西谷さんがカプコンに入られたのは、どんなゲームがリリースされている時期だったんですか?

西谷 カプコンのゲームだと……『魔界村』も出ていましたし、『ガンスモーク』(1985年/カプコン)もリリースされていましたね。『闘いの挽歌』(1986年/カプコン)が出たあたりかな……。『サイドアーム』(1986年/カプコン)が開発中だったのは、よく覚えてます。

大堀 ベーマガのライターだった池ちゃん(響あきら氏)に連れられて、職安通り沿いのカプコンの開発室……だったかな、そこに行ったことはあるんですよ。

―― それは『エグゼドエグゼス』(1985年/カプコン)を開発しているときだったと思います。なので、1984年の年末とかじゃないですか。

大堀 ああ、そうか。そうだったね。

西谷 そのときは、私はまだカプコンに入社してませんね。あと、カプコンは恵比寿にもありました。竹中も最初はそこで働いていたんじゃなかったかな。

―― 西谷さんがカプコンに入られたとき、社内にはすでに活躍なさっているクリエイターの方々がいらっしゃったと思うのですが……。

西谷 あのときは開発は3つに分かれていたんだったかな。西山さん(*03)が第一開発で、藤原さん(*04)が第二開発、岡本さんが第三開発と言われていた時代で、その後は西山さんがお辞めになって、藤原さんがコンシューマ、岡本さんがアーケードという感じになっていったのは覚えています。

―― 竹中さんとはカプコン時代は一緒の仕事をされなかったんですか?

西谷 ああ、言われてみれば同じチームになったことは一回もなかったかもしれないですね。彼はコンシューマが大好きだったこともあって、途中からはそちらにシフトしていったんですね。だから一緒のプロジェクトにならなかったのかも。

―― 上司に当たる岡本さんは厳しかったのでしょうか?

西谷 そうですね。さっきも言ったとおり、体育会系の人なので(笑)。ただ、単に熱血とか気合とか、そういう感じではなく、非常にビジネス感覚に秀でている方なんですよ。商才がある、と言ってもいいかもしれません。私とかあきまんさん(*05)とか船水さん(*06)とか、今いる人材をうまく活用してプロジェクトを成功に導くのがすごくうまいんですね。

―― なるほど。

西谷 たとえば、私は飽きっぽい性格なので、『ファイナルファイト』(1989年/カプコン)を作ったあと、続編をやれと言われたら絶対にやらないと答えるのを、岡本さんはよくわかっていたんですね(笑)。でも、このタイプのゲームは、まだビジネスとして十分成り立つ。そこで岡本さんは別の人にベルトスクロールアクションを作らせたり、私には違うゲームを作っていいよ、と。

―― ものすごく気を遣ってくださる方なんですね。

西谷 その辺、岡本さんは本当にすごいんですよ! 岡本さんって「お前ら自由にやれ。ダメだったら俺が責任取るから」って。そういうタイプの方なんです。なので『ストII』のときも、「お前ら思いっきりバット振って来い。ホームラン狙っていけ。三振したら、まあしゃーないから」と。とにかく開発というか、開発者を会社から守ってくれる。そういう存在でしたね。

―― 岡本さんといえば、よく社内でゲーム大会を企画なさっていたというお話も聞いたことがあります。

西谷 ああ、懐かしいなぁ。たとえば私が入社したばかりの頃とか、掃除当番をゲームで決めるなんていうのも企画されていましたね。

大堀 それはアーケードゲームで、ですか?

西谷 そうですね。『エグゼドエグゼス』とか『ガンスモーク』とか。週替わりで競うゲームが変わるんですよ。

大堀 それ、西谷さん負けないでしょ(笑)。

西谷 まあ、そうですね。新入社員だっていうのに一回も会社の掃除をしたことありませんし(笑)。

―― なぜ、そういったゲーム大会という試みを?

西谷 当時はまだゲームというものが世間一般に広く認知されていない時代だったんですね。カプコンに入社してくる人の八割ぐらいがゲームのことをまったく知らなかったりするほどで。

大堀 八割は多いですね。

西谷 それはよくないと岡本さんは考えていたんです。

石黒 では、社員のゲームに対する意識を変えるためにゲーム大会を?

西谷 そうです、そういう意図で開催されていました。

―― 岡本さんは、メディアでは「ゲームが嫌いだ」的なご発言をなさっているようですが、それについてはいかがですか?

西谷 ゲームなら何でも好き、というのではないのは本当だと思います。ただ、研究はものすごくする方なんですよ。とにかく研究熱心なのは間違いないです。

―― 西谷さんも大きな影響を受けているんですね。

西谷 そうですね。あと影響という面でいうと、安田さんですよね。

―― 安田さんは、西谷さんにとってどういう方でしたか?

西谷 入社当時、私は「ものを作っている」という気持ちが希薄だったんだと思います。たとえば漫画にしてもゲームにしても、「絵」があるのはわかっていても、それをどうやって描いているのか実際に見たことがなかったんですね。そんな私の目の前で、すごい絵を実際に描く。そのことにすごく衝撃を受けたのを覚えています。ただ……。

―― ただ?

西谷 そんな素晴らしい絵を描く安田さんに対して、私は社会人経験もない上に絵心もないクソガキですから(笑)、平気で「ここはこうだ」、「あそこはああだ」とダメ出しをするわけです(笑)。

大堀 若いって恐ろしいですよね(笑)。

西谷 本当に失礼なことばかりしていたな、と思います。でも安田さんは、そんな素人の私の意見にも真摯に耳を傾けてくれて、「よし、もっといい絵を描いてやるぜ」と、私の要求のもっともっと上を行こうとしてくださるんです。本当にすごい人なんですよ。

―― 西谷さんは、他の先輩方に対しても、そういう感じだったんですか?

西谷 船水さんに対しては……そんなことはなかったような。

―― それは、どうしてですか?

西谷 船水さんは、私や安田さんに比べて過酷なポジションにいることが多かったように思うんです。岡本さんは私とかには「ホームランを狙え」と言うんですけど、船水さんには「お前は送りバントな」みたいな(笑)。

―― でも、送りバント大事ですよ!

西谷 船水さんはフォローする力がものすごい方で。岡本さんとは違うスタンスで、とにかくいろいろと助けてくださる。本当にいい人なんですよ。つい最近、一週間ぐらい前だったかな(このインタビューの収録日は、2019年10月29日)、会いましたし。間違いなく尊敬できる先輩のひとりですね。

―― なるほど。ところで西谷さんは、ある日、突然ゲームクリエイターになったわけですが、一般のプレイヤーから簡単にスイッチが切り替わるものなんでしょうか?

西谷 それに関しては、自覚している部分があるんですよ。もちろん入社当時は、何をしたらいいのか、どうやればいいものができるのか。何もわからない状態でした。でも『ファイナルファイト』が完成する直前だったかな……急に、何の前触れもなく目線が変わった瞬間があったですね。それまではゲーマーの目線でゲームを作ってきたのに、その瞬間から「あ、それじゃいけないな」と、クリエイターの視線を持つことができるようになった。ゲーム的に言うと、主観視点だったのが、いきなり俯瞰視点になったような、そんな感じですね。ただ、それからは素直にゲームを楽しめなくなっちゃったんですよ(笑)。「これは、こういう理由で入れてるんだな」とか。しかもゲームだけじゃなく、漫画とか映画もそんな視点で観るようになってしまって(笑)。

―― なるほど。

西谷 各要素の有機的なつながり、というんですかね。そういった部分をものすごく気にするようになった、と言えばいいんでしょうか。

大堀所長と西谷氏

次回予告

ついにカプコンへと入社なさった西谷氏。次回の「中編」は、西谷氏がはじめて開発に携わった『ロストワールド』(1988年/カプコン)についてのお話を伺っていく。
乞うご期待!

西谷 亮さんの選んだアーケードゲーム・ベスト10も、ぜひご覧ください!
マイ・ベスト・アーケードゲーム Vol.10 西谷 亮

西谷 亮

1967年東京生まれ。
1986年株式会社カプコン入社。
業務用ビデオゲームソフトの企画職として『ストリートファイターII』『ストリートファイターII’』の開発に携わる。
カプコン在籍時には、『ロストワールド』『ファイナルファイト』『X-MEN』などの企画も担当。
1995年株式会社カプコンを退社。
同年株式会社アリカを設立、代表取締役社長に就任。 代表作は『ストリートファイターEX』シリーズ、『EVER BLUE』シリーズなど。

脚注

脚注
01 子供の科学
1924年から刊行されている児童向け科学雑誌。誠文堂新光社より出版されている。
02 竹中善則氏
1967年生まれ。1986年カプコンに入社。その後、かつてのゲーム仲間である西谷氏をカプコン入社に導いた。カプコン在籍時は『ロックマン』や『ブレスオブファイア』シリーズのプロデュースを担当。2004年カプコンを退社してゲームリパブリックに入社、『ブレイブ ストーリー 新たなる旅人』などを担当する。2010年スリーリングスを設立、代表取締役に就任。
03 西山隆志氏
カプコン時代には『ストリートファイター』などを制作。その後、SNKに移籍し『餓狼伝説』や『龍虎の拳』などを手がける。現在は株式会社ディンプスの代表取締役社長。
04 藤原得郎氏
カプコン時代には『魔界村』や『戦場の狼』などを企画、『バイオハザード』や『ロックマン』シリーズなどをプロデュース。現在は株式会社ディープスペースに所属。
05 あきまん氏
安田 朗氏のペンネーム。カプコン時代は『ファイナルファイト』や『ストリートファイターII』などの企画やグラフィックを兼任。イラストレーター、キャラクターデザイナーとしての才能も発揮し、『∀ガンダム』のキャラクターデザインも担当した。
06 船水紀孝氏
『サイドアーム』からカプコンのゲーム制作に携わり、以降『ロストワールド』や『ストリートファイターZERO』シリーズ、『ヴァンパイア』シリーズなど様々なタイトルを手がける。企画からゲームデザイン、制作統括など幅広く活躍。現在は株式会社インディゴゲームスタジオの代表取締役社長。

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