セガのゲーセンの思い出 ゲームセンターという舞台

  • 記事タイトル
    セガのゲーセンの思い出 ゲームセンターという舞台
  • 公開日
    2020年11月20日
  • 記事番号
    4136
  • ライター
    藤井昌樹

観客としてゲーセンに通っていた頃

わたしがゲームセンターに通い詰めていたのは1980年代後半から1990年代前半にかけて。
この期間、セガのアーケードゲームで最も印象に残っているのは、やはり「体感ゲーム」になります。
映像表現の観点から、また筐体の可動ギミックの観点からも、当時の最先端技術が惜しみなく投入されていました。

そのため、プレイヤーはもちろん、周りで観ているギャラリーに与えるインパクトも大きかった。
『スペースハリアー』や『アウトラン』、『アフターバーナー』といった筐体の周りには、稼働当初たくさんの人だかりができていたものです。
そのギャラリーの中に、10代後半だったわたしもいました。

当時のわたしは北海道の苫小牧市に住んでおり、ゲーム好きではあったものの、アーケードゲームに関してはそれほど強い攻略やスコア稼ぎへの欲求は少なく、1コインで1周クリアできたタイトルは一つくらいという程度でした。
まして最先端の体感ゲームともなると「自分には無理」という先入観があって、当初はひたすらギャラリーに徹していました。

それでもステージが進むにつれて多彩に変わるグラフィックはギャラリーとして観ているだけでも、まったく飽きることはありませんでした。
この頃はサウンドも大きめに鳴らされていたので、『スペースハリアー』や『アウトラン』のBGMは後ろで観ているだけなのにフレーズを覚えられるまでになっていました。
こうしたことから俄然、セガというゲームメーカーへの関心が高まり、それまで見向きもしていなかったセガの家庭用ハードに手を出します。

こうして手に入れたセガ・マークIIIに、タイミングよく『スペースハリアー』や『アウトラン』が移植されました。
もちろんこれらのソフトも入手。
自分の部屋で小遣いの残額や時間を気にすることなくプレイできたので、『スペースハリアー』や『アウトラン』の全コースをクリアすることができたのです。

『スペースハリアー』(Nintendo Switchにて撮影)ⒸSEGA

気付いたら舞台に立っていた

家庭用版をクリアできるまでやり込むと、自然にアーケード版にも興味が出てきます。
そこで以前はギャラリーに徹していた両タイトルのアーケード版を実際にプレイしてみました。

当時、家庭用に移植された体感ゲームはかなりの力技移植だったので、いろいろダウンスケールされていましたが、ステージ構成についてはほぼ同じでした。
そのため、『スペースハリアー』での敵の出現パターンや『アウトラン』のコースレイアウトはすでにわたしの頭に入っていました。
さらに家庭用に比べてアーケード版は操作性が段違いに良好なので、思いのほか短期間で先のステージに進めるようになり、程なくどちらのタイトルも1コインクリアできるようになりました。
そうするとわたしのプレイの周りには、いつの間にかギャラリーが集まるようになっていました。

『アフターバーナー』がリリースされた1987年、苫小牧の駅前通り沿いにセガ直営のゲームセンターがありました。
店外に見える形で4~6台のブラウン管モニターが配置されていて、当時リリースされたばかりの『アフターバーナーII』のデモ画面を映していました。
マルチモニターでの体感ゲーム新作のデモ映像は、通りを歩く人たちにとってかなりのインパクトがありました。
まだゲームPVというのが珍しい時代に、ゲームをあまり知らない人にもその存在を知らしめる。
かなり先進的な取り組みをしていたゲーセンでした。
わたしにとっては、プレイヤーとギャラリーの双方の立場を経験、共有できた貴重な場を与えてくれたゲームセンターだったと思います。

『アウトラン』(Nintendo Switchにて撮影)ⒸSEGA

舞台に立つ者どうしの交流

1988年、わたしは札幌市に引っ越しました。
苫小牧と比べてゲーセンの数は豊富で、狸小路にセガ直営のゲーセンがあり、そこによく通いました。

当時はセガ直営店だけで販売されていたゲーム用プリペイドカードがあり、わたしの行動範囲では唯一それが使えるゲーセンでした。
また、ここにはプレイ中に店員からコーヒーを1杯提供してもらえるサービスがありました。
たいていはテーブル筐体やミディタイプ筐体の隅に置かれるのですが、さすがに体感ゲームプレイ時はもらえませんでした。
タイミングが良ければプレイ後にいただけた記憶があります。

このときはリリース直後の体感ゲーム『パワードリフト』をよくプレイしていました。
『スペースハリアー』や『アウトラン』ですでに自信をつけていたので、移植版を待たずにアーケード版をすぐにプレイしました。

『パワードリフト』はミスしない限り、敵車の配置が決まっているので、パターン化することで先に進みやすくなるレースゲームでした。
5つのコースが選択でき、易しい順にプレイすることで、ひとつずつ1コインクリアできるようになりました。
全5コース1位で進めるエクストラステージももちろんクリアです。

ところが、最高難易度のDコースクリアに挑戦したわたしは苦戦を強いられます。

あるとき最終ステージ5でわたしがゲームオーバーになった直後に、見ず知らずのプレイヤーが同じDコースをプレイ、同じくステージ5でゲームオーバーになりました。

後ろで観ていたわたしは筐体から降りてきた彼に話しかけ、お互いの健闘を称えあいました。
彼とはこの1回だけのやり取りでしたが、今でも思い出として残っています。
こうしたことが自然に起こり得たのが、ゲームセンターという場所だったのかなと思います。

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