北海道ゲーマーズ・オーラルヒストリー

  • 記事タイトル
    北海道ゲーマーズ・オーラルヒストリー
  • 公開日
    2023年06月09日
  • 記事番号
    9555
  • ライター
    藤井昌樹

第一回・荒木聡さん(元ゲーム同人誌作家)Vol.2

北海道在住のゲーマーの皆さんにお話を伺う新企画「北海道ゲーマーズ・オーラルヒストリー」。
第1回は、1984年から87年にかけて「札幌南無児村青年団」、「HAM」というサークルの代表としてビデオゲーム同人誌を発行されていた荒木聡さんへのインタビューをお届けしています。
今回のVol.2では、同人誌「おーるらうんど」創刊前後について、お話を伺いました。
なお、荒木さんはインタビュー(2022年11月)の終了後、2022年12月にご病気のため急逝されました。ご冥福をお祈りすると共に、本記事が荒木さんの貴重なオーラル・ヒストリーを後世に残す一助となればと思います。

第一回 Vol.1は、こちら

1984~87年にかけて「札幌南無児村青年団」「HAM」の代表として同人誌を制作されていた荒木聡氏。

新生、札幌南無児村青年団

――続いて、やまざき拓さんと則巻猫兵衛さんが大学進学のため、札幌南無児村青年団から抜けられた以降についてお聞きします。『リブルラブル』(ナムコ(現:バンダイナムコエンターテインメント)/1983年)の攻略同人誌「FANTASYへのアプローチ」を制作した時点では、あくまでこの本を発行するために便宜的に付けられた名前が「札幌南無児村青年団」だったわけですけど、やまざきさん・則巻さんが抜けられたあと、札幌そごう9階ゲームコーナーを拠点に活動するメンバーのサークル名となったわけですね。

荒木 そうです。だから84年の3月に改めて結団式をやりました。名前の略称も「SNC」になって。

※札幌そごうゲームスポット

――この時点で、荒木さんが次の代表になったのですか?

荒木 そうです、やまざきに次いでの2代目ですね。そのときに団体のバッジも作りました。3月の時点ではやまざきがまだ札幌にいたので、バッジはやまざきの手製です。本当に多芸な人間でした。バッジは今も持っています。

――これは当時のメンバーの人数分を作ったのですか?

荒木 はい。通常のメンバーは通し番号が付いているのですが、ぼくと雑識童子だけは通常メンバーと違い代表の位置付けだったので、番号の代わりに雑識童子が「?」マーク、ぼくが「!」マークにしていました。数字以外を付けてくれたのはやまざきの案です。

やまざき拓氏が手作りした「札幌南無児村青年団」メンバーバッジ。

――創設時点での南無児村青年団の人数はどれくらいだったのですか?

荒木 6人くらいだったと思います。

――先に挙げられた雑識童子さんの他にどのようなかたがたがいらっしゃったのですか?

荒木 雑誌「ファンロード」のローディスト集会でわたしと知り合ったメンバーが集まってきました。

――ファンロードの話題が出たのでお聞きしますが、荒木さんがファンロードを読みはじめたのはいつ頃でしょうか?

荒木 高校2年のときだから81年の6~7月くらいでしょうか。おもしろい雑誌で、元々投稿というものに興味があったというのもあります。その頃はアニメもテレビでよく観ていました

――それはファンロードを読みはじめる頃から?

荒木 いや、その前から。親が仕事から帰ってくるまでの間、夕方くらいにやっていた再放送でアニメを自由に観られるようになりました。それでアニメをだんだん好きになっていったと。

――最初にファンロードを買ってからは、毎号買うようになったのでしょうか?

荒木 とにかくおもしろくて、毎号買っていました。最初は普通のアニメ誌だと思いました。でも表紙のイラストを見て、よく見かけない絵だなと思った。どういうことかというと投稿された読者の絵が表紙なんです。アニメやマンガのファンが投稿するイラストや文章がメインの雑誌というのは当時新しいもので、かなり衝撃を感じました。

――他のアニメ誌というのは読んでいたのですか?

荒木 読んでいました。主に読んでいたのはアニメディアです。

――アニメを多く観るようになって情報が必要となり、アニメ誌を買うようになった。そういった中でアニメ誌のひとつかと思って手に取ったのがファンロードだったという流れなんですね。

荒木 はい。ファンロードを知ってからは、アニメ誌とファンロードは違う考えかたで読むものと認識しました。

――ファンロードは投稿主体ということでは他のアニメ誌と違うわけですよね。荒木さんの波長とも合うものだった。

荒木 はい。ファンロードはおもしろかったですね。皆さんの投稿がとにかくおもしろかった。買いはじめた号の次の号に自分も投稿して、すぐに載せてもらえました。それでまた、これは自分に合っている雑誌だと思ったと。その後、どんどんいろんなネタを考えるようになりました。当時は「裂けたキャンバス」というペンネームを使っていましたね。

――そのペンネームは最初から?

荒木 はい。車田正美ファンだったのですが、「リングにかけろ」でキャンバスが弧を描くように裂けるといったシーンがあったんですね。それを名前に使いました。当時「BOMB」という雑誌があって、「赤い手裏剣」とかいうおもしろいペンネームを使っている人がいてインパクトを感じて。そういうリズムのあるネームにしようと思い、かつ自分が好きなものに見合ったものとして思いついたのが「裂けたキャンバス」。その後、頭に「JOSCA」を付けて「JOSCA・裂けたキャンバス」になりました。

――後に「おーるらうんど」で使われるペンネームである「JOSCA」ですね。「JOSCA」の由来は?

荒木 「JOSCA」は元々5文字が入れられるゲームのハイスコアネームとして使っていました。「JO」が放送局、「SCA」が「裂けたキャンバス(Split Canvas)」の頭文字。それで「JOSCA」なんです。

80年代に北海道内の「ファンロード」投稿者が共同で制作した同人誌「Roadclub」。
「Roadclub」Vol.7内の「シュミのビデオゲーム特集」。「裂けたキャンバス」名義で荒木さんが書かれた文章とイラストも掲載されている。

――「おーるらうんど」を作られる84年以降もファンロードに投稿されていたのでしょうか?

荒木 はい。大学を卒業するまでですね。「おーるらうんど」が休刊になった以降も少し続けていました。

――そうするとゲーム同人誌の制作はファンロードに投稿している時期の間に行われていたということになる。

荒木 そういうことですね。その後はゲームから切り替えて、別な同人誌や小説を書くようになります。

――これまでファンロードの話を細かく聞いたのは、「おーるらうんど」が主にパロディ的な視点を持つという点で、その影響を受けているということからでした。もうひとつ影響を受けたものとして雑誌「パズル通信ニコリ」があると以前に聞きました。これが先ほど話にあった「ニコリ組」と呼ばれる、後から青年団に入ってきた雑識童子さんたちから導入されたものになります。雑識童子さんたちはニコリの愛読者だったとのことですが、荒木さんとしてはそれまではニコリのことは知らなかった?

荒木 そうです。当時はニコリもまだ同人誌レベルの小さな雑誌でしたが、ファンは存在していたようです。自分もパズルは嫌いではなかったのでニコリ組の影響を受けて読むようになりました。これも読んでみたらおもしろくて。

――雑識童子さんたちニコリ組は「おーるらうんど」の最初から執筆に加わっていたのですか?

荒木 最初からです。雑識童子は1号から、論理~狼(Logical Wolf)は2号からだったかな。「おーるらうんど」に毎回パズルが載るようになるのは、論理~狼の提案なんですよ。彼自身、オリジナルのパズルをよく自作していたので。パズルについては、僕らが提唱していた「ゲームに知性を」ということを込めたのと、ビデオゲームの熱狂に対してパズルでクールダウンさせようという意味合いも込めて取り入れていましたね。

――同人誌を作るとき以外は、メンバーそれぞれ活動していた感じでしょうか。そごうにも来たり来なかったり。

荒木 そうですね。普段ゲームを楽しむ分には何の強制も制約もありませんでした。ただ「NAMUSEMENT 北海道」という情報誌だけは必ず携わることにしていました。

――「NAMUSEMENT 北海道」は「おーるらうんど」1号の時点ですでに誌面で紹介されていますね。「おーうらうんど」1号に載っている「NAMUSEMENT 北海道」の紹介記事を読むと、ナムコ北海道事業所が作っているとあります。

荒木 冊子ではなくペラ1枚のチラシでした。ナムコ北海道事業所が制作したものですが、記事の一部を青年団のほうで作って原稿をナムコに渡していました。ナムコ自らが作っていた記事は新製品の情報であったり、ゲームの攻略もあったり。青年団が担当していた部分は、例えばゲームをプレイするときに通常とは異なるこういうおもしろい遊びかたもあるということも載せていました。やまざきが個人で作っていた「TACつうしん」を引き継ぐ形でもあって、内容もそれに合わせていました。

「おーるらうんど」1号に掲載された「NAMUSEMENT 北海道」の紹介文。

――「おーるらうんど」1号での紹介記事を見ると、新製品紹介や攻略情報といったナムコ自らが担当することは一切やらず、南無児村担当部分ではもっぱらお店紹介や青年団コーナー、お便り、クイズなど、ゲームを肴にただひたすら楽しむという構成になっている。やはり後の「おーるらうんど」に繋がる内容になっていますね。ちなみに「NAMUSEMENT 北海道」はどれくらいのペースで発行していたのですか?

荒木 1か月に1回です。こちらもそごう9階ゲームコーナーに置いてありました。

――では、サークル活動という点では、まず「NAMUSEMENT 北海道」の誌面制作がメインとなる活動だったのですね。誌面の内容を青年団が担当するというのは、リブルラブル本である「FANTASYへのアプローチ」についてナムコ側から好評を受けていたからになるのでしょうか?

荒木 それはあったと思います。「NAMUSEMENT 北海道」は原稿を僕らがナムコに送って、ナムコの女子社員さんが記事として文章化してまとめていました。

――原稿はナムコ札幌事業所に直接郵送していたのですか?それともそごう9階ゲームコーナーの店員さん経由で送っていた?

荒木 たしか、そごうの店員さん経由だったと思います。

――改めて「おーるらうんど」1号での「NAMUSEMENT 北海道」についての記事を見ると、「キャロット・ネットワーク」という大阪での同様の情報誌についての記述もあります。

荒木 「キャロット・ネットワーク」の存在は大きかったですね。

――「おーるらうんど」の記事では、「NAMUSEMENT 北海道」は「キャロット・ネットワーク」を手本にしていると書いていますね。

荒木 はい。当時「キャロット・ネットワーク」を作っていたかたとは、今でも付き合いがあります。

――「NAMUSEMENT 北海道」は当時けっこう人気があり、「全道のナムコ直営店を結ぶくらいメジャーになってしまった」と「おーるらうんど」1号に書いてあります。これは全道のナムコ直営店に「NAMUSEMENT 北海道」が置かれていたということですか?

荒木 はい、置かれていました。すべてではないでしょうけど、それに近かったと思います。

――「NAMUSEMENT 北海道」の現物は、今お持ちではないですか?

荒木 ないですね。あれば、たいへん貴重なものになると思います。

攻略しないゲーム同人誌「おーるらうんど」創刊

――さて、84年4月から新しい南無児村青年団の活動がはじまって、まず「NAMUSEMENT 北海道」の記事制作がメインの活動となりました。その後、定期刊行される同人誌である「おーるらうんど」と『ドルアーガの塔』(ナムコ/1984年)の攻略本「THE WAY TO SAVE KI」が南無児村青年団自ら制作という形で発行されます。これらの構想は84年4月の時点ですでにあったのですか?

荒木 なかったです。

――「おーるらうんど」は1号の時点でゲームの攻略をしないということを明確に打ち出していますね。

荒木 それは「NAMUSEMENT 北海道」で青年団が携わっていたところの考えを引き継いでいました。

1984年11月1日、初版40部で発行された「おーるらうんど」1号。表紙には当時、荒木さんが好きだった『ポールポジションII』に登場する「エミちゃん」のイラストが荒木さん自身によって描かれている。

――以前、荒木さんとお話したときに、「おーるらうんど」では攻略という要素に触れない代わりに、別な形で攻略本としての同人誌を出した。それが『ドルアーガの塔』と『グロブダー』(ナムコ/1984年)だったと聞きました。

荒木 そうですね。どちらの案が先にあったかは忘れていますが、棲み分けを意識して複数の同人誌を作ったというのはあります。自分が同人誌文化というものに長く触れていた中で、アニメやマンガなどのジャンルで言えば作品を深掘りした本や二次創作というものがあった。そこでは自分はこの作品が好きでたまらないというところをベースに自由に書いている。そして読む側も自由に読んでいい。批評の前にまず楽しむというか。そういう姿勢で本を作っている人が同人の中では多かった。特にアニメのジャンルですね。それが「おーるらうんど」を作るときのヒントになりました。ゲームの同人誌でもその視点で作れるのじゃないかと。『ゼビウス』(ナムコ/1983年)があって、『マッピー』(ナムコ/1983年)があって、『リブルラブル』があって、それぞれのファンがいて。それぞれのタイトルについて楽しく書く。ゲームに出てくるキャラクターについて書く。それだけで、いい同人誌になると思いました。それを即売会でも売ることができるんじゃないかとも。このことを思いついたのが84年の夏だったと思います。

――新しい南無児村青年団が始まって3~4か月くらい経った頃ですね。

荒木 当時のゲーム同人誌は、まず攻略が求められていた時代でした。ドルアーガもそうですが、当時は特に『ギャプラス』(ナムコ/1984年)の攻略情報が求められていました。自分は『ポールポジションII』(ナムコ/1983年)を別にすれば、攻略から取り残された人間という位置付けでした。だからこそ、他の視点でゲームにしがみついていられる方法を考えていました。

――このとき、荒木さんはすでにアニメの同人誌の読者でしたよね。

荒木 たっぷり触れていました。読者としてはアニメが本分でしたから。

――当時のアニメ同人誌はどのように入手していましたか?

荒木 同人誌即売会です。札幌でも盛んに開催していました。テイセンホールとかですね。札幌市青少年センターで即売会をやっていたこともありました。

――アニメの同人誌を読みはじめた時期は?

荒木 83年くらいからかな。

――ファンロードを読んで、投稿されるのも同じ頃ですよね。

荒木 そうです。ファンロードの誌面にも各地の同人誌即売会の情報が載っていたんですよ。それで即売会を札幌でやっている、小樽でも旭川でもやっているということを知ることができたのです。

――ファンロードにおける投稿文化の影響を受けているゲーム同人誌という観点では、「おーるらうんど」のような同人誌はおそらく少なかった。

荒木 少なかったと思います。

――そこが興味深いのは、2022年の今「おーるらうんど」の内容を見ると、同人誌としてゲームの攻略を扱わず世界観やキャラクターを掘り下げることに違和感がありません。現在、同じ傾向の本というのは同人誌に限らず、たくさんあるからです。しかし当時は商業誌でもアニメとゲームを同時に扱う本はないに等しかったから、それぞれのアプローチの仕方がまだあまり交わっていなかった。

荒木 今と比べると、そう思います。

――この辺りは現在の若い世代からは想像できない部分かもしれないですね。

荒木 大きな話をさせてもらえれば、それを最初期にやったゲーム同人誌のひとつが「おーるらうんど」だったという言いかたはできると思います。

――1号についてわたしが他に印象的だったのは、ゲームミュージックについての記事がすでにあることです。その後に別冊が出るくらい「おーるらうんど」では毎号ゲームミュージックに誌面を割いている。1号が出た時期は、最初のゲームミュージック・アルバム「ビデオ・ゲーム・ミュージック」と12インチシングル「スーパーゼビウス」が出た後で、続く「リターン・オブ・ビデオ・ゲーム・ミュージック」はまだ出ていない頃。ゲームミュージックが独立して楽しめるようになってまだ間もない頃に注目するというのは、けっこう早いタイミングです。

荒木 その頃から音楽が好きな人が、僕や雑識童子を含めてメンバーにたくさんいました。僕はクラシック音楽、雑識童子はテクノポップが大好きだった。それぞれの見方で音楽に触れていたのが良かったのだと思います。

「おーるらうんど」1号に掲載された荒木さんによる「ビデオ・ゲーム・ミュージック」と「スーパーゼビウス」のレビュー記事。

――自分は把握していないのですが、当時「ビデオ・ゲーム・ミュージック」や「スーパーゼビウス」が音楽誌で紹介されたことってあるのですか? 細野晴臣さんがプロデュースしているので注目されそうな感じですが。

荒木 僕は高校時代に「FMステーション」というFM情報誌を毎週必ず買っていました。高校の頃はまだクラシックを聴いておらず、洋楽ばかり聴いていましたので。そこで掲載された情報で「ビデオ・ゲーム・ミュージック」を知ったような記憶があります。細野さんが関わる形で、おもしろいレコードが出るよという紹介のされかただったような。

1984年に発売された日本初のゲームミュージック・サントラ「ビデオ・ゲーム・ミュージック」。

――荒木さんは「ビデオ・ゲーム・ミュージック」を買いましたか?

荒木 もちろん買いました。発売してすぐですね。

――「ビデオ・ゲーム・ミュージック」に収録されているタイトルは、基本的に当時遊んでいるのですよね。

荒木 はい、遊んでいます。

――遊んだときに、まず曲はBGMとして耳に入っていて。レコードではじめて聴いたというゲームタイトルは、この時点ではまだないですか?

荒木 ないです。

――そうなんですね。わたしは田舎暮らしだったこともあり、「ビデオ・ゲーム・ミュージック」ではじめて聴いたゲームがぽつぽつあるんです。でも、札幌のナムコ直営店に行ける人だったら、当時稼働していた一通りのナムコのゲームミュージックを聴く機会は多かったわけですよね。

荒木 聴いていますね。

――わたしも世代として「ビデオ・ゲーム・ミュージック」がリリースされた時点で聴いている人間ですが、このレコードの発売日が生まれる前だったという人も増えています。だから今後アルバム「ビデオ・ゲーム・ミュージック」がゲームミュージックにおけるクラシックになっていくとも言えます。

荒木 そういうことですね。

――ここでまた「おーるらうんど」に話を戻します。「おーるらうんど」という誌名の由来は?

荒木 それは「何でもやる」という意味。まさに「オールラウンド・プレイヤー」からですね。ゲームのすべての要素というものをやり尽くすプレイヤーというイメージです。どんな切り口からでも、俺たちはゲームを語ることができるぞという思いを込めました。

――荒木さんは「おーるらうんど」でかなりの文章を書いています。当時の荒木さんは、こうして言語化して文章を書くことが得意だったのですか?

荒木 ものすごく得意でした。受験生のときに模試の小論文で全国上位だったこともあります。それくらい筆が立つ人間でした。後に同人誌でオリジナル小説も書きますが、それくらいの素養があったと自分で思います。

――そういった形で文章を書けるようになるベースにあるもののひとつとしては、やはり読書があるのでしょうか?

荒木 僕は図鑑をたくさん読んでいました。図鑑に書かれていた解説はベースになっていると思いますね。あとはラジオが大好きだったので、パーソナリティの語り口は文章を書くときの参考になっています。ラジオのヒアリングで想像力を鍛えられたというのはありますね。目から入る情報だけではない。音声を耳で聴いたことを自分の中できちんと理解するという行為は、いいトレーニングになりました。

――ファンロードも文章ネタが多かったから、いろんな文章に触れることができたと言えるでしょうか。

荒木 ファンロードは文章というよりも、笑いのセンスを磨くというところが大きかったですね。自分自身が思う笑いと、他の人が思う笑いをすり合わせるというところもあったかな。

――当時の同人誌は文字を手で書いていましたが、荒木さんは手書きが苦ではなかった?

荒木 それは書道をやっていたから、苦ではなかったです。

――なるほど。書道は親から押し付けられたものというお話でしたが、その経験は後に活きているということなんですね。

荒木 活かせていますね。僕が見た同人誌の中で「マンガの手帳」というマンガ評論の伝説的な本があります。ここで使われていた手書き文字を目標にして「おーるらうんど」を書いていました。

――当時の同人誌は手書きが当たり前だから、同人誌を作ろうと考える人は文章を手で書くことになるのは折り込み済みなのでしょうね。

荒木 そうです。それが当たり前でした。字を書くのが下手だから同人誌を作ることに二の足を踏む人がいるという時代でしたね。「おーるらうんど」では、他のライターが書いた原稿を自分が手書きで記事にすることもありました。

――同人誌の制作にあたって、まずレイアウトをざっくり考えるのですか?

荒木 そうです。ガイドライン的な下線を書いて。その前にどれくらいの文字数で書くかを決めます。その字数で収まるレイアウトはどうなるかという形で考えていきます。

――レイアウトが決まったら、次に下書きを書くのですか?

荒木 まず鉛筆で下書きを書きます。下書きができたら、上からロットリングで書きます。

――わたしは以前、印刷会社で働いたことがあって、そのときはすでにDTPだったので、文章や画像を切ったり貼ったり自由に加工できたのですが、手書きとなると自由度は低いのでなかなか大変だなと感じます。

荒木 でも、当時はそれが当たり前ではありました。

――荒木さんは文字のほかにイラストも描かれています。イラストについては「おーるらうんど」以前から個人で描いていたのですか?

荒木 高校3年くらいのときからですね。アニメが本格的に好きになったときです。週刊少年サンデーの「まんがカレッジ」という本があって、マンガを描くにあたっての基本などが書かれていました。それを読みながら、少しずつイラストの勉強をしていきました。

――それを「おーるらうんど」にも反映させていたのですね。

荒木 はい。「おーるらうんど」1号のときは、イラストを描きはじめて、まだ1年くらいしか経っていないのじゃないかな。ただ、上手い人は本当に多くのイラストを描きます。イラストについて、僕はそこまで情熱がなく、イラスト主体の同人誌を作ろうという思いもありませんでした。「おーるらうんど」でイラストを描いていて、自分はたいしたことないなという諦めみたいなものもあって、けっきょく描けないようになっていきます。

同人誌制作の拠点「札幌市青少年センター」

――「おーるらうんど」について、もうひとつお聞きしたいキーワードがあります。札幌市青少年センター。原稿は主にここで書かれていたということですが、1号の時点でここを使っていたのですか?

荒木 使っていました。

――荒木さんのアニメ同人誌への関心の中で青少年センターの存在を知ったということでしたね。こちらは荒木さんだけが利用していたのですか? それとも他のメンバーも?

荒木 他のメンバーで使っている人も何人かいました。それと青少年センターにいた人間から、南無児村青年団に引き抜いたメンバーもいます。

――ゲーム以外のジャンルの同人誌を作っていた人たちもサークルに参加したと。

荒木 はい。そういう人たちもゲームに興味を持ちはじめました。僕からゲームの話を彼らにしていくうちに興味を持ったという流れです。彼らもゲーセンに行ってはいたので、元々ゲームと接点はあったわけですね。

――青少年センターはいつ頃からあったのでしょう?

荒木 僕がローディスト集会にはじめて行ったときが1983年の春くらいだったと思いますから、そのときにはすでにありました。もっと前からはあったはずですね。その後、取り壊されて北海道警察本部になりますが、90年代まではあったと思います。道警本部ビルができてから、青少年センターは南のほうに移転したと聞きます。さらに今は大通のほうにあるらしいですね。名前も「札幌市青少年センター」ではないようです。

――当時、こちらの施設の目的はどういったものだったのでしょう?

荒木 青少年文化の育成でした。そこに沿うものであれば、どんなものでもOKという感じでしたね。僕らみたいに文章を書いたり、他に音楽をやっている人もいましたし、手芸のサークルもありました。1階にロビーがあって、そこに丸テーブルが二つあって。

――当時のサブカルを含めた文化系の集まりだった感じでしょうかね。

荒木 はい。特にサブカルが強かったですね。ファンロード投稿の常連さんも多かったです。僕もその中にいました。

――当時のアニメ系同人誌制作のメイン拠点が札幌市青少年センターだったという認識でいいでしょうか。

荒木 はい、ほぼメインだったと思います。かなりコアな人が多かったですからね。

――荒木さんたちがここを使っていたことで、当時主流の同人誌制作スキルを身に着けられたわけですね。

荒木 そうですね。後に札幌のSF大会のメンバーも入ってきましたし、その影響で僕らはSF方面にも強くなりました。

――ここは無料で利用できたのですか?

荒木 ロビーを使う分には無料です。部屋を借りる場合は、利用料を払う必要がありました。

――南無児村青年団として同人誌の原稿を書くのはロビーのみで済んでいたのですか?

荒木 はい。だから無料で使っていました。今思えば、そこはすごく助かったところですね。ただ共有のロビーなので、長時間占有することはできませんでした。そこは気を使って利用していましたね。

――利用するにあたって、サークルとして登録ということはあったのですか?

荒木 いや、ロビーを使うだけなので、それはなかったです。ロビーにはテレビも置いてあって、当時みんなでアニメを観るということもありました。平日だと午後5時にアニメの再放送があったり、土曜日だとガンダムから連なるリアルロボットアニメが放映していましたから、それを観るために青少年センターに来ていた人は多かったです。僕はそこで「聖戦士ダンバイン」を全話観ましたから。

――かなりの常連ですね。

荒木 常連でした。その後、南無児村青年団の他のメンバーの一部も常連になっていくわけです。その流れで、みんなでSF大会に関わったり、パソコン通信に触れるようになっていきます。

――さらなる広がりに繋がっていくのですね。青少年センターの利用は、87年の「おーるらうんど」休刊まで続くのですか?

荒木 はい。ほぼすべての同人誌の原稿は、ここで書きました。

――荒木さんは「おーるらうんど」発行時に出ていた他のゲーム同人誌はご覧になっていたのですか?

荒木 手塚一郎さんや見城こうじさんが作られていた「BGM」は読んでいました。「おーるらうんど」を作っていた頃に一度、巣鴨キャロットに行く機会があって、そこに置いてあったものは読みましたね。このときに「ゲームフリーク」や「あまちゅあらいん」、「VG3」も読んだ記憶があります。

――札幌で作られていた他のゲーム同人誌は読まれていましたか?

荒木 札幌で作られていた他の同人誌について当時はわからなかったんですよ。

ナムコのバックアップの元で制作した『ドルアーガの塔』攻略本

――「おーるらうんど」2号の前に『ドルアーガの塔』の攻略本「THE WAY TO SAVE KI」を出されます。「おーるらうんど」本誌で攻略に触れない分、別冊で出すという形です。ただ、大半のナムコゲームを攻略しているわけではなくて、荒木さんたちが手掛けた攻略本は『ドルアーガの塔』と『グロブダー』の二つのみでした。まずドルアーガの攻略本を出そうと思ったきっかけというのは?

荒木 やはり人気があったからというのはあります。それと雑識童子のほうでドルアーガのバックボーンになっている世界観を紹介したいという思いがありました。元々シミュレーションゲーマーであった彼は、ウォーゲームがものすごく上手かったし、ゲームのコレクターでもありました。またテーブルトークRPGにも親しんでいました。この本で、わたしは彼に頼まれてイラストを描いています。

――そうすると文章は雑識童子さんが書かれたということですか。

荒木 そうです。文章については、わたしはほとんどタッチしていません。

「札幌南無児村青年団」として2冊目の攻略同人誌となる「THE WAY TO SAVE KI」。雑識童子氏がメインで執筆、荒木さんは一部のイラストを手掛けている。
自力での攻略が容易ではなかった『ドルアーガの塔』。当時、攻略情報を求めるプレイヤーは多かった。(※PS4版を使用)
THE TOWER OF DRUAGA™& ©Bandai Namco Entertainment Inc.
Arcade Archives Series Produced by HAMSTER Co.

――実際の内容を読むと、純粋な攻略要素が割合として多い印象を受けます。宝箱の出しかたの詳細も書かれていて、当時とても需要があったことが伺えます。ここに書かれている攻略情報は、雑識童子さんが実際にプレイして得られたものですか? ナムコ札幌事業所から情報を得たものもあるのでしょうか?

荒木 基本的に自分でプレイした経験から得たことを書いていますが、ナムコ側から得た情報もあったようです。自力ではわからないことはありましたからね。

――そういった情報を得られたのは、それまでの「NAMUSEMENT 北海道」も含めたナムコ札幌事業所との繋がりがあったおかげなんですね。

荒木 そうなります。

――この本で興味深いのは、制作当時に一部のアイテムやモンスターの正式名称がわからないから便宜的というか仮の名前が付けられています。一方で公式の名前がわかっているものについては、それで表記している。

荒木 もしかしたら、その時点でナムコ札幌事業所のほうでも一部わからない名前があったのかもしれないですね。わかっているのは遠藤雅伸さんを含めた開発の皆さんだけで、営業の部署ではわからない。だからチェックのしようがなかったのじゃないかと。

――なるほど。今から見ておもしろいのは、すべての設定が公開されていない頃に作られた本なので、公式情報とそうではないものが混在している「過渡期感」みたいなものがあって、そういう意味で貴重に思えます。

荒木 そうですね。
   

(Vol.3に続く)

次回は、1985年から86年初頭にかけて制作された同人誌を掘り下げていきます。ボリュームと内容のバラエティ度がさらに増していく本の数々がどのように制作されたのか、お話を伺います。

本インタビューは、インタビュー時から約40年前のお話を荒木さんにお聞きしました。そのため荒木さんご自身の記憶にどうしても曖昧なところが一部あるうえでのお話となっています。その曖昧な部分を可能な範囲で補完するための事実確認にあたって、下記の皆様にご協力をいただきました。こちらにお名前を紹介させていただき、お礼を申し上げます(氏名五十音順、敬称略)。
 荒木純子
 見城こうじ
 雑識童子
 中川 剛
 ヒパイスト
 本野善次郎

YouTube・ゲーメストチャンネルで配信されております『アンドキュメンテッド・ゲーメスト / ステージ013ゾーン1~6』の中で、荒木さんが手掛けられた同人誌について取り上げられています。

動画内で雑識童子様、瑞原 螢様が発言されている内容をインタビュー内に一部反映させていただいております。

「雑誌・攻略本・同人誌 ゲームの本展」、「小樽・札幌ゲーセン物語展ミニ」の中で荒木さんが制作に携わった同人誌を展示した経緯から、市立小樽文学館にて2023年8月末から荒木さんの追悼展を開催する予定です。詳細が決まり次第、改めてお伝えします。

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