市原雄亮×古代祐三 ダブルインタビュー 前編

  • 記事タイトル
    市原雄亮×古代祐三 ダブルインタビュー 前編
  • 公開日
    2019年11月15日
  • 記事番号
    2229
  • ライター
    IGCCメディア編集部

『アクトレイザー』楽譜化決定記念 特別インタビュー

スーパーファミコンの名作ソフト『アクトレイザー』といえば、日本の誇る作曲家・古代祐三氏の意欲作として今でも人気が高い。そんな同作の楽曲の数々をゲームの音源に忠実に楽譜化したい……そう考えた男がいた。日本初のゲーム音楽プロオーケストラ「新日本BGMフィルハーモニー管弦楽団」を立ち上げ、首席指揮者に就任した市原雄亮氏である。さらに市原氏の盟友にして編曲家である羽田二十八氏を加えたこの三名によって、このプロジェクトはスタートした。
戦いの場は、キックスターター。期間は、2019年7月18日~2019年9月2日までのわずか46日。この間に1,500,000円のプレッジ(支援の約束)を集めなければならない。
当初は伸び悩んでいたプレッジだが、最終日が近づくにつれて多くの支援者が現れ、最終的には377 人のバッカーによって3,514,809円ものプレッジが集まり、驚くべきことに4つ用意されたすべてのストレッチゴールまで達成してしまったのである。
(プロジェクトの詳細や結果などは、こちらを)
今回、そのプロジェクトの大成功を記念して、市原雄亮、古代祐三の両氏にダブルインタビューをお願いした。
お二人の幼少の頃から、なぜ『アクトレイザー』楽譜化計画が立ち上がったのかまで、株式会社エインシャントにお邪魔し、じっくりとお話を伺ってきた。

古代家のスパルタ教育

―― まずはファンディングの大成功、おめでとうございます!

古代 ありがとうございます!

―― それからストレッチゴールもすべてクリアという快挙!

市原 すごいですよね。もうホントに感謝の言葉しかないですよ。どうもありがとうございます。

古代 いやぁ、ここまで行けるとは思ってなかったですね。ビックリしました。

―― さて、すでに大活躍なさっているお二人ですが、改めて読者のみなさんにお二人のことを知っていただくという意味も含めて、それぞれの幼少のころからのお話から伺っていきたいと思います。

古代 お手柔らかにお願いします(笑)。

―― まずは古代さん。幼少期の、音楽との出会いについてお聞きしたいのですが。

古代 私は母が音楽学校のピアノの先生をやっていたこともあって、強制的にやらされていた感じですね(笑)。

―― あまり音楽を楽しいと思ってなかったんですか?

古代 二歳とか三歳のときの記憶なんで確かではないんですけど……最初は楽しかったような気がします。でも、おぼろげに覚えているんですけど……途中から母が急に厳しくなったんですよね。私もだんだん体がデカくなって、それで遠慮がいらなくなったからなんでしょうけど、スパルタ教育になっていったように記憶しています。

―― スパルタ教育ですか!

古代 容赦なく鉄拳制裁とか(笑)。その頃からですね、何だか嫌だなぁって思いはじめたのは。

市原 それは音楽自体を嫌いになりかけてたんですか?

古代 うーん。そうですね、音楽もセットで嫌いになりかけていましたね……。小学校低学年の頃とかかな。

―― そんな過去が……。

古代 小学校の二年生から久石さんのところに通うようになって、それでだんだん母の手から離れていった感じですね。

―― 当初はお母さまに音楽を教えてもらっていたということですが、そうなるとやはりクラシックから……?

古代 そうですね。当時は、まだ音楽教育ってものがそんなに浸透も確立もされていなくて、そうなると音大出身の先生はクラシックをやりなさい、ってなるのが一般的で。それに音楽のジャンル的にも、今と比べると幅が狭かったと思うんですよね。

―― 今みたいにテクノとかラップやろうぜ!みたいなことはなかった?

古代 そうなんですよ。そういうのは、もっとあとになってからですね。

―― クラシックについては、どういう捉え方をしていましたか? 子どもの頃だと、一般的には童謡とか、あるいは歌謡曲などに流れそうな気もするんですが。

古代 そうですね。でも、私の場合、小学六年生ぐらいになるまでは、自分の好きな音楽を聴くっていう環境がなかったんですね。当時だとレコード屋さんに行って選ぶか、テレビで流れてくるものを聴くか……それぐらいしか選択肢がなかった。

―― となると、クラシックが好きとか嫌いとかいう以前に……。

古代 ええ。音楽ってこういうもんなんだ、って考えていたんだと思います。

―― では、音楽に目覚めたというかハマったという経験は……?

古代 普通の子ども並に、アニメの音楽を聴いたり、歌謡曲のレコードを買ったりって経験は確かにありました。ピンクレディーだって買いましたし、「およげ!たいやきくん」(*01)だって何度も聴きました。でも、はじめて他の人の音楽を好きでハマって、音楽ファンとしてレコードを買うようになったのは、やっぱりYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)からでしょうね。

―― ああ、なるほど。古代さんの場合、小学校六年生ぐらいですよね。

古代 ええ。YMOはもちろんよかったんですけど、世の中の流れとして、あれが登場するのは必然だったんだと思います。あの頃のキッズにとってもの凄いインパクトがありました。それで音楽というものが一気に広がったような気がしますね。

―― たとえば高中(*02)を聴くようになった。

古代 そうですそうです、広がりましたよね。テクノだけじゃなく、音楽的な視野を広げてくれたのは、少なくとも私の場合、YMOだったと思います。

ビデオゲームは夢の扉

―― 一方でビデオゲームとの出会いはどうでしょうか?

古代 小学校四年生ぐらいからやっていましたね。ホントにもう初期のブロック崩しとかから夢中になっていましたね。

―― このあたり(古代さんの地元)には昔からゲームセンターが?

古代 いえ、この辺にはなかったですね。近所にゲームセンターができたのは、『スペースインベーダー』(1978年/タイトー)がブームになってからかな。

―― 「インベーダーハウス」って名前で各地にぼこぼこゲームセンターができましたもんね。じゃあ、それまでは……。

古代 ボーリング場のゲームコーナーとか、旅行に行ったときの温泉の旅館にあるゲームコーナーとか。

―― ビデオゲームの、どういうところに惹かれましたか?

古代 不思議な世界……ですかね。普段の生活をしていると、絶対にあり得ない世界がゲームの中にあるじゃないですか。だから、私にとってゲームコーナーっていうのは、非日常というか完全に別世界だったんです。

市原 その頃、ゲームの音については、どう思っていました?

古代 ゲームそのものもおもしろかったんですけど、やっぱり音も特殊で衝撃的でしたね。あんな音、普段の生活のどこでも聴くことができないじゃないですか。

―― ビデオゲームで遊んでいたことは、よりYMOに惹かれた一因になっていますか?

古代 それはなっていますね。YMOの1stに「サーカスのテーマ」なんて収録されていますし。それがフックになっていた部分はあると思います。

多くの人を魅了し、また強い影響を与えた名作『ゼビウス』。
写真提供:バンダイナムコエンターテインメント
ⒸBANDAI NAMCO Entertainment Inc.

市原 『ゼビウス』のアルバムをプロデュースしたのも細野さんでしたよね。

古代 そうですそうです。衝撃的でしたよね。

―― さて、そんな古代さんがパソコン……というか、当時はマイコンと呼んでいましたが、コンピュータと出会うわけですが。

古代 そうですね。ビデオゲームの音楽をいわゆる耳コピしてPC-8801mkⅡSR(1985年にNECが発売したパソコン)で再現したりしていましたね。

―― 当時、ご自分のオリジナル曲を作ってみようとは考えなかったんですか?

古代 うーん。自分で曲を作りたいなと思うどころか、自分で曲を作れるとはまったく想像もしてなかったんですね。作曲というのは、とんでもない才能があってこそできるもので、今みたいに手軽に挑戦できるわけでもなかったですしね。

―― なるほど。

古代 子どもの頃から久石さんのところに通っていたことも関係あると思うんですよ。スタジオとか高そうなシンセサイザーとか、そういうものが揃っているからこそできるプロフェッショナルな世界で、「選ばれた人」じゃないと作曲をすることは不可能なんだと信じて疑わなかった(笑)。

―― たとえば音大に行くとか。

古代 そうです。自分にはまったく縁のない世界だと思ってました。

市原 そんな古代さんが、なぜ作曲を?

古代 やっぱりコンピュータとの出会いですね。耳コピをずっとしていたら、ふと作りたくなっちゃったんですね。自分でも理由はよくわからないんですけど。

―― それは、たとえばベーマガ(マイコンBASICマガジン)に掲載されているプログラムを入力しているうちにプログラムの仕組みがわかってきて、オリジナルに挑戦してみようかな、と思う気持ちと……。

古代 絶対に一緒だと思いますね(笑)。ただ、オリジナルを作らなきゃ!と思ったことは一度もなくて。あんなこともできるなとか、こんなことはできないかなとか、そういう好奇心の延長線上に作曲があったという感じだと思うんです。

―― 自然発生的な感情だったと?

古代 そうですね。思春期の自然な感情の芽生えというか(笑)。

市原 そうなると、作曲をはじめる前は、どういったモチベーションで音楽というものを続けていたんですか?

古代 うーん。

―― その頃も、仕方がなく続けていた側面は強かったんですか?

古代 母に指導を受けているときは、確かにそうですね。それ以降もバイオリンやチェロの先生をつけられたりして……確かに、仕方なくやっていましたね。

―― 逆に音楽以外はどうだったんでしょうか? たとえば勉強をしなさいとか……。

古代 いえ、私は勉強は好きだったんですよ(笑)。もともと小学生のとき、めちゃめちゃ勉強ができて。中学のときも受験勉強を結構頑張りましたし。母に勉強について言われたことって、ほとんどないですね。というよりも、母は音楽だけ。ピアノやりなさい、バイオリンやりなさい、それしか言わないんですよ(笑)。

―― 逆に勉強していると怒られるとか。

古代 それはさすがにないですけど(笑)。でも、音楽さえやっていれば、母は何も言わない。ゲームでいくら遊んでも怒られない。だから、自分の好きなことをするために音楽を続けていたって側面はあるかもしれませんね。

―― ご自分からは、あまり進んで音楽について学んでこなかったとのことでしたが、ゲーム音楽に触れてどうお感じになりましたか。

古代 一言で言えば衝撃でしたよね。これまで自分にとっての音楽というのは、小さい頃から聴いて育ったクラシックや、テレビから流れてくる歌謡曲。その二つだけだったのが、いきなりそのどちらでもない異質なものが現れた。

―― それは……音色という部分が大きいですか?

古代 そうですそうです、まさにそこでしたね。PSGというワンチップ化される以前の、回路を組んで作っているディスクリートの時代から、あの音に心をグッと掴まれていました。いまだに大好きなんですよ。エクスタシーを感じるというか(笑)。

すぐそばにあったゲーム音楽

―― さて、続いて市原さんにもご幼少のころのお話を伺いたいと思います。市原さんも、昔から音楽の勉強を……?

市原 そうですね。勉強ではないですが、ぼくも古代さんと同じで、親にピアノをやらされていた感じですね。あんまり自分から、というのはなかった。

―― それほど熱意があったわけではなかった、と?

市原 ええ、だから中学一年ぐらいまでしか続けなかったんです。それに、あんまり熱心に練習した記憶はないので、全然うまくならなかった。ちょっと弾けます程度なんです。

―― そうでしたか。

市原 ただ古代さんと大きく違うのは、ぼくが生まれたときにはすでにゲーム音楽というものがあり、珍しい存在ではなかったということでしょうね。物心ついたとき、はじめて音楽というものを意識したのがファミコンだったんです。

古代 英才教育じゃないですか(笑)。

市原 だからPSG音源とか、子守歌じゃないですけど、ものすごく馴染みのある音として心に染みついていますよね。今でも大好きですし。

―― 逆にクラシックなどは、どんなものをお聴きになっていたんでしょう。

市原 うーん。うちの親が家でちょっと聴いていたもの……ぐらいかな。というのも、うちは音楽とはまったく関係のない一家だったんですね。だから、たまにリビングで親が聴いていたなぁという程度の記憶があるぐらいです。

―― では、クラシックに本格的に触れたのは……。

市原 二十歳を過ぎてからですね。ただ吹奏楽はやっていたので、そちらのオリジナル曲やポップスなどの演奏の経験はありました。

ファミコンソフト『ラビリンス』

―― ご幼少の頃からビデオゲームが当たり前に存在していたとのお話でしたが、どういったタイトルで遊んでましたか?

市原 ああ、ぼくは子どもの頃から、ずっと任天堂キッズとして育ってきたんですよ(笑)。ファミコン、スーファミ(スーパーファミコン)、64(ニンテンドー64)、ゲームキューブ、Wiiと。

古代 エリートコースまっしぐらじゃないですか(笑)。

市原 だから、レトロゲームの範疇だと、任天堂以外のハードのゲーム、あまり知らないんですよね。なので、ファミコンとスーファミの時代が一番ゲームで遊んでいたかもしれないですね。

―― その中でもお気に入りは?

市原 まったく王道じゃないんですけど、徳間書店の『ラビリンス』(1987年/徳間書店)というゲームをずっと遊んでたんですよ。

―― かなり渋いところが出てきました(笑)。デヴィッド・ボウイが出演していた、同名映画のゲーム化作品ですね。

徳間書店から発売された『ラビリンス』。市原氏曰く「人間力が試される一作」とのこと。

市原 そういえば、あのゲームの曲、映画の楽曲のアレンジが多いんですけど、増子司さんがご担当なさっていたと聞いて驚きましたね。

古代 え、そうなんですか!?(と、身を乗り出す)

―― 増子司さんといえば、ファミコンの『女神転生 』の楽曲を担当なさっていることでも有名ですよね。

古代 増子さんはキャリアの長いかたですよね。テーカン(後のテクモで、現在のコーエーテクモゲームス)で『スターフォース』や『ボンジャック』(いずれも1984年)なども担当されてたはずです。Hiro師匠(川口博史氏。セガ・インタラクティブ所属の作曲家)よりも古くから業界にいるかたかもしれませんね。

市原 実は先日、増子さんとお会いしていて。お若い、精力的なかただったので、そこまで古くから業界で活躍なさっているとは思わなくてビックリしましたよ。

―― 話を戻しますが、やはり『ラビリンス』の音楽に惹かれたのでしょうか?

市原 それもあると思いますが……何でしょうね(笑)。非常に「人間力」が試されるゲームであることは確かで、手放しには褒められないかもしれませんし、正直、あまり他の人にもお勧めしづらいかな、と(笑)。

―― ゲームというのは「経験」「体験」なので、そのおもしろさとか言語化しにくい部分は多いですよね。

市原 そうなんですよ(笑)。そういうことにしておきます(笑)。

日本ファルコムを選んだ理由

―― 一方で古代さんはPCを入手後、ビデオゲームの音楽の耳コピを経て日本ファルコムでアルバイトをはじめますよね。

古代 はい、そうですね。

―― ここで急に作曲したい!というスイッチが入ったんでしょうか?

古代 いえ、実はそうではないんですよ。というか、あの時点では、将来、ゲーム音楽を作っていきたいとか、まったく考えていなかったんですよ。

市原 では、どうして日本ファルコムへ?

古代 私、ゲームが作りたかったんですよ。

市原 ゲームを? ゲーム音楽ではなく?

古代 その少し前から、特に理由もなくオリジナルの曲を作りはじめていたのは確かです。何とな~く、作ってたんですよ。そのとき、ふとログインを読んでいたら、日本ファルコムさんがスタッフを募集していたのを見つけて、ああ、ファルコムさん立川か、これは結構近いな、と。それで、自分はこういうこともできますと、自作の曲をいくつか持って行ったら採用されてしまった。

―― 名刺代わりに自作の曲を持って行ったら、それが認められたわけですか。

古代 そうですね。でも、それは音楽スタッフとして働きたいというわけじゃなくて。私はゲームそのものを作りたかったんです。

市原 えー、そうなんですか!?

―― そういえば、古代さんはPC-8801mkⅡSRで縦シュー(縦スクロールのシューティングゲーム)を作ってましたよね。

古代 あははは、よく知ってますね(笑)。作ってましたね。

―― おもしろいなぁと思ったのは、自機が『グラディウス』のようなレーザーを撃てるんですけど、それをテキストで表現してる部分でした。それで敵のグラフィックなどとの重ね合わせがすごいうまくいってて。

古代 懐かしいなぁ。ちょうど、『沙羅曼蛇』の縦スクロール面を自分なりに作ったような感じのものでしたね。オプションもいくつもつけられるようにして……。

市原 え、古代さんがご自分で作ってた? シューティングを?

古代 ええ、趣味で作ってました(笑)。そんな感じで、ビデオゲームそのものを作りたいなぁと、ずっと思ってたんですね。

市原 へえ~。すごいなぁ。そんなことまでしてたんだ……。

―― 古代さんって「工夫の人」だと思うんですよ。シューティングゲームで自機のレーザーをテキストで表現しちゃうだけじゃなくて、たとえば効果音を解析するために、テープレコーダーのリールを指で押さえたりしてるのを実際に見てますし……。

古代 あははは、それも見られてましたか(爆笑)。

市原 え、どういうことですか?

古代 当時の1/60秒で回っている効果音を採譜するのに、音の再生を遅くしないと聞き取れないじゃないですか。それでテープレコーダーのカセットの入っている部分の蓋を開けて、リールのところを指で押さえて、物理的に再生スピードを遅くして聴いてたんです。

市原 めちゃくちゃアナログじゃないですか(笑)。

古代 この話って、たまにいろんなところでするんですけど、まさか目撃者がいるとは(笑)。今の若い人たちには信じてもらえないだろうなって思ってましたが、証人が現れてくれた(笑)。

―― そういうのを見ていたので、古代さんは「工夫の人」だなぁ、と。そういう風にずっと思ってたんですよ。

古代 でも、ファルコムさんに曲が採用されるとは正直、思ってなかったんですよ。それをきっかけにして、「じゃあ、うちで働いてみる?」と言ってもらえたらいいな、と。それでゲーム制作に加われたらうれしいな、ぐらいの気持ちですね。

―― 持ち込んだ曲はどうなりました?

古代 いや、それがそのまま次の『ザナドゥ シナリオⅡ』(1986年/日本ファルコム)に採用されちゃったのには驚きましたね(笑)。え、これでいいんですか?って(笑)。

―― 『ザナドゥ』はアクションではありますが、RPGでもあります。そのRPGに、どんな曲を載せるべきか、どんな曲を書くべきか。その辺で悩まれたりはしませんでしたか?

古代 二つあって、一つは当時聴いていた曲に影響されていた部分はあると思います。

市原 二つあって……もう一つは?

古代 うーん。PC-8801mkⅡSRで表現できる曲は何か、と考えたときに、そんなに幅広くないじゃないですか。自分の好きなタイプですと、ドラムに1チャンネル、あるいは2チャンネル割いて……みたいに考えていくと、だんだんやれる曲が決まって来ちゃいますよね。

―― 消去法で書く曲を決めていった感じですか。

古代 そうですね。PC-8801mkⅡSRというハードを活かした曲作りという考え方をしていくと、どうしても『ザナドゥ シナリオⅡ』で採用してもらったような曲になっていってしまうのかなぁとは思います。それで自然と『イース』(1987年/日本ファルコム)のようなフレーズが生まれてきた感じですね。

―― 古代さんはアーケードゲームが大好きだと思うのですが、なぜアーケードゲームのメーカーではなく、パソコンソフトを作る会社を選択したのでしょうか?

古代 アーケードは大好きで、そういう夢は当然、持っていました。でも、アーケードゲームのメーカーって「大企業」というイメージが強くて、きちんと大学を出て、就職をして……というように、ステップを踏まないといけない、大人の場所だなんて勝手に思ってて。

―― なるほど。

古代 でも……あ、これはファルコムさんを悪く言うつもりはないんですけど、「ソフトハウス」というと、もうちょっと親しみやすいというか、アルバイトとしてゲーム開発に関わらせてくれそうなイメージもあったんですね。だから、試しに持ち込みをしてみよう、と。

―― 古代さんは、確かアマチュア時代にすでにセガには何度か……。

古代 そうですね。同人誌を作ってた時代に、何度かお邪魔したことがありました。でも、建物もデカいし、見るからに大企業だし、こういうところは実績のない自分なんか絶対に相手にしてもらえないだろうなぁ、なんて思ってましたね。

―― やっぱり当時のゲームキッズにとって、アーケードゲームというのは別格の存在だったんですね。

ネットで広がっていった世界

古代 市原さんはPCやアーケードはやらなかったんですか?

市原 そのあたりは通ってないんですよね。小中学生の頃とかPCは持っていませんでしたし、ゲームセンターには友だちに誘われて行ったことはもちろん何度もありますが、ずっと友だちのプレイを後ろから見ていただけでした。

―― それは、なぜでしょう?

市原 みんな、格ゲー(格闘ゲーム)ばっかり遊んでいるんですよ。

―― ああ、なるほど。

市原 当時は『ストリートファイターII』(1991年/カプコン)や『バーチャファイター』(1993年/セガ)や『ヴァンパイアハンター』(1995年/カプコン)とか『KOF』(1994年/SNK)……格ゲー全盛期で……ぼく、格ゲーすごい苦手なんですよね。

―― お金もかかりますし。

市原 そうなんですよ。それは非常に大きい(笑)。

―― では、古代さんの作った曲を意識されたのは、どのあたりだったんでしょうか。

市原 ファミコンの『ドラゴンスレイヤーⅣ』(1987年/ナムコ 開発:日本ファルコム)で、ぼくはそれで古代さんの曲にはじめて触れたと思うんですけど、当時はネットとかないですし、古代さんが曲を担当しているとか、そういうことはまったく知りませんでしたね。

―― では、大人になってから……?

市原 そうなんですよ。古代さんのことをいろいろ調べてみたら、「ああ、あのゲームも古代さんだったんだ!」と。誰が作曲してるとか、そういうのを調べようとしなかった子ども時代だったんです。ですから、『ファイナルファンタジー』シリーズでは遊んでいても、植松伸夫さんのことは大人になるまで全然知らなかったり。なので、大人になってから知ることがいっぱいで、ネットがあってよかったなぁと(笑)。

古代 あとからわかったことって結構いっぱいありますよね。

市原 それでも、今でもわからないことってありますよね。特にゲーム音楽関係って。

―― それはいろいろなゲーム音楽の関係者にお会いしてお話を聞いていると……?

市原 そうですね。それでようやく長年の謎が解けたとか。あるいは謎のままだったり。

古代 名曲とされているものでも、実際は作曲者がはっきりしないものも確かにありますよね。

市原 そういうのを解き明かしていくのも楽しいんですよ。

―― 市原さんは、ゲーム音楽っていいなぁと、いつ頃から感じていたんでしょうか。

市原 いえ、そもそも「ゲーム音楽」というくくりはしていなくて。

―― クラシックも歌謡曲もゲーム音楽も……。

市原 そうです、ぼくの中では等しい存在でしたね。というのも、やっぱり生まれたときからすぐ近くにゲームがあったからだと思うんです。

―― そういえば、どれもテレビから流れてきたりしますね。

市原 そう、そうなんですよ。だから、ぼくの中ではどれも同じ音楽。そういう捉え方をしていました。小さい頃に結構やったのが、テレビのスピーカーの前にテープレコーダーを持っていって、それで録音して……。

古代 私の世代でも普通にやってました(笑)。ゲーム音楽好きなら、誰もが通る道なのかもしれませんね。

―― 市原さんにもお聞きしたいのですが、作曲をしてみようというお考えは?

市原 これも古代さんと似たような答えになってしまうんですけど……作曲できる人って神みたいな人だと思っているんです(笑)。この考えは、今でも変わっていませんね。

―― え、今でも、ですか!?

市原 ぼくは高校、大学の頃はPCをようやく手に入れて、それでゲーム音楽を打ち込んでMIDIで鳴らして楽しむようになっていました。で、そうしているうちに、これを生で演奏したらもっと楽しいだろうなぁって思いはじめて……。

―― そこから作曲へは……。

市原 ええ、当然、そう思いましたね。……当時は。

古代 当時は(笑)。

市原 で、実際に作曲したら……ダメでした(笑)。

―― ご自身で満足できるものにはならなかった?

市原 そうですね。なので、作曲はきっぱりと断念して。

―― それで指揮者への道を……。

市原 多分、背景にあるのは、先ほどお話しした「PCでゲーム音楽を鳴らしていたあの頃」だったのかもしれません。指揮者というのは、すでに楽譜のあるものを、どう表現するのか、どう聴いていただくのか、というところなので。でも、いつかまた作曲に再挑戦してみたい気持ちはあります。

―― 指揮者のかたも、やっぱり作曲はできたほうがいいのでしょうか?

市原 バーンスタイン(レナード・バーンスタイン)もめちゃ自分で作曲するじゃないですか。ああいうのはいいなぁって思いますよね。

古代 そうですね。フルトヴェングラーもちゃんと楽譜を残していますしね。

市原 なので、いつか……達成したい目標の一つですね。もちろん、すべての指揮者が作曲をしているわけじゃないんですけど……。

古代 作曲している人のほうが少ないと思いますね。

―― 高校生、大学生の頃からPCに音楽を打ち込むことに熱中していたとのお話ですが、そのまま音楽の道へ進もうと思われていたのでしょうか?

市原 ぼく……これも古代さんと同じになっちゃうんですけど、ゲームを作る人になりたかったんですよね。それで高校のとき、ゲーム作りについて学ぶなら専門学校だろう、と。それを親に相談したら、猛反対されたんですね(笑)。お願いだから普通の大学に進学してくれ、と。でも、卒業したらどんな道を進んでもいいからって。まあ、学費を出してもらう身分ですから、無視するわけにもいかないですしね……。

―― それで進学された先が法学部でしたよね。

市原 そうなんですよ。まったくゲームに関係ないという(笑)。でも、そこにいる間に指揮というものに目覚めてしまったんですね。人生、何があるかわからないものです。もちろん、今でもゲームは作ってみたいなとは思ってます。まあ、それも夢の一つですね。

『アクトレイザー』への参画

―― さて、ここからは『アクトレイザー』についてお伺いします。

市原 おお、ようやく、ですか(笑)。

―― スーパーファミコンといえばPCM音源を搭載したゲーム機ですが、このお話が来たときに、どんなことをお考えになりましたか?

古代 私はこれまで主にFM音源で曲を作ってきたわけですが、やっぱりアーケードゲームの曲をずっと追いかけてきたこともあって、PCM音源への憧れはものすごく強かったんです。特にセガさんとかよく使っていましたけど、ドラムがPCM音源で鳴らせるのって、やっぱりいいよなぁって、ずっと思ってたんですね。

―― 古代さんは『ザ・スキーム』 (1988年/ボーステック) でも……。

古代 そうですそうです。サンプラーについては、『ザ・スキーム』でも拡張ボードのおかげで1チャンネル使うことができましたし、他にもCDのレコーディングのときに触れることもありましたし。ちょうどあの当時、廉価版のサンプラーが出始めたときだったのかな、これが自由に使えたら楽しいだろうなぁと思ってたところだったんです。

―― では、タイミングよく……。

古代 ええ、チャンスが巡ってきた感じでしたね。それで説明書などを目に通して、おおっ、すげえ! これで夢が叶う! って(笑)。

1991年、東芝EMIからリリースされた『アクトレイザー』のCDのジャケット。

市原 古代さんといえばFM音源というイメージがありますが、そちらではもうやり尽くした感じはあったんですか?

古代 FM音源は今でも大好きなんですけど、やっぱり出せる音に限界があるというか、すべてFM音源ぽくなってしまう部分もあるんです。

市原 リアルな音というか、音色へのこだわりが強かったんですかね?

古代 それはありましたね。当時、それができなかった。リアルな生の音を録音して、それを楽器化して曲を作るというのは夢だったわけです。だから、単純にそういうことをしてみたかった、というのはすごくありますね。当時はサンプラーがようやく普及しはじめた時期で、まだ一台30万円とか40万円とかする時代で。それと同じようなことが、2万いくらのホビー機でできてしまうなんて本当に衝撃的でした。

―― スーパーファミコンならではの苦労というのはありましたか?

古代 スーファミ自体はすごくいいハードで、ちゃんとした開発環境がそろっていれば、結構何でもできちゃう感じでしたね。ただ、当時はまだ開発のためのライブラリーとかが貧弱で、極めつけがハードウェアで……。

―― 確かソニーのNEWSでしたよね。

古代 そうですそうです。あれが思った以上にオンボロで(笑)。当時の日本のPCのフラッグシップといえばNECのPC-9801じゃないですか。その10倍ぐらいの値段がするのに、どうして性能が追いついてないんだろう、と(笑)。

―― ご苦労が目に浮かぶようです……。

古代 そんな中でも橋本さん(*03)が、自分が提案したドライバを作ってくれたりして……それでずいぶん助かりましたね。

市原 開発環境が、かなり改善されたんですか?

古代 最初に任天堂が提供してくれていたスーファミ開発用のライブラリーというのは、ゲーム開始時にロードした音色データを、ゲームが最後までずっと使い回さなくてはいけない仕様になっていたんです。

市原 え、それは次のステージに進んでも……。

古代 そうですね、すべてのステージで同じ音色で使わなくちゃいけなくて。それはさすがにきついと思ってステージ間でデータの読み替えをできるようにしてもらったわけです。

市原 同じ音色を最初から最後まで使い回すとなると、オーケストラは……きついですね。

古代 でも、何とかステージごとに使用する楽器を変えられるようになって、いろんな曲を作ることができるようになりました。

―― 当時のサウンドドライバーは「かんきちくん」でしたっけ?

古代 そうです。あと……「タコサンプル」だったかな。

―― サンプリング用のソフトウェアですね。それからそれをプレビューする「イカリッスン」。

市原 タコとイカ……(笑)。

―― 『スプラトゥーン』ぽいですよね(笑)。同時発音数が8チャンネルということから来ているのかもしれません。

市原 なるほど(笑)。

古代 「かんきちくん」は有名ですけど、とにかくNEWSがなぁ(苦笑)。

市原 どの辺にご不満が?

古代 落ちるんですよ。データとか延々と入力したあとで落ちてしまったときの絶望感といったら(笑)。ハードディスクも結構脆弱でしたしね。

―― 音楽を実際に制作するときの工程についてなのですが……FM音源の場合は、パラメータを調節しながら曲を作っていくと思います。それに対してスーパーファミコンの場合は、複数のツールを使い分けて作曲していきますよね? 同時に進めるのではなく……。

古代 そうですね。最初に音色を「これだ!」と決め打ちして作って、そこから楽譜を入力して……といった感じになります。ですから、多分、この辺りが一番ハードルが高いんじゃないかと、個人的には思ってます。

―― もう少しくわしくお願いします。

古代 最初にこういう音色を録音・設定しておいて、それを曲として鳴らしたときにどういったサウンドになるのか……それをイメージするのが非常に難しいんですね。

市原 実際に鳴らしてみないとわからない?

古代 わからないですね。

市原 じゃあ、音の高さによって違う音色を用意しなくちゃいけないとか……。

古代 そういうこともあります。あと、予想外の使い方っていうんですかね、それができるかどうか。たとえばストリングスの音……波形の短いのを使うとして、それを連続して再生させることでサステインを長くさせるとか、MMLでやってたこと……PC-88時代にやっていたことが非常に効果的でしたね。

―― とすると、そういったFM音源時代に習得してきた数々のテクニックがなければ……。

古代 もっと苦労してたでしょうね。

市原 音源ががらりと変わっても、そういったテクニックが継承されているっていうのは非常におもしろいですね。

古代 その辺りは、音楽を普通にMIDIだけでやっていた人にはなかなか思いつかないものだったかもしれません。なので、ある意味、私は運がよかったんでしょうね。

【中編】へ続く。

お知らせ

今回インタビューをお願いした市原雄亮氏が代表兼指揮者を務める「新日本BGMフィルハーモニー管弦楽団」が、結成5周年を迎えました。
その記念すべき通算50回目のコンサートに選んだのが、何とファミコン版『ウィザードリィ』。
くわしくは、こちらをご覧ください!

市原 雄亮

新潟県上越市出身 神奈川県横浜市在住
成蹊大学法学部法律学科卒業4歳よりピアノを始める。中学校でテューバに出会い、後にトロンボーンに転向。大学は法学部へ進み、在学中に指揮を本格的に学び始める。
法学と指揮を学びながら大学を卒業。2006年より指揮者として活動を開始。2011年に神奈川フィルハーモニー管弦楽団で開催された副指揮者オーディションへ応募。第二次審査まで進み、同楽団を指揮する。
2012年、日本初のゲーム音楽プロオーケストラ「日本BGMフィルハーモニー管弦楽団」を立ち上げ、首席指揮者に就任。現在は後継団体である新日本BGMフィルハーモニー管弦楽団の代表、指揮者を務める。
音楽誌での連載、ソニーレコードのクラシックCDライナーノーツ執筆等の文筆業や、讀賣新聞朝刊全国版第2面で個人の特集記事の掲載、地上波TV番組への出演、『ファイナルファンタジー』シリーズのBGM収録での指揮など、精力的な活動を繰り広げている。2019年にはNHK総合「SONGS OF TOKYO」でX JAPANのYOSHIKI氏のバックで指揮者を務めた。
トロンボーンを高階恵、三輪純生の両氏に、指揮を金丸克己氏に師事。

古代 祐三

主にコンピューターゲームの音楽を手がける作曲家、ゲームプロデューサー。
ゲーム制作会社株式会社エインシャント代表取締役社長。
代表作に『イース』、『イースII』、『ソーサリアン』、『アクトレイザー』、『シェンムー』、『湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNE』、『世界樹の迷宮』他。

脚注   [ + ]

01. 「およげ!たいやきくん」
1975年の年末にリリースされた、シングル盤のレコード。子ども向け番組「ひらけ!ポンキッキ」のオリジナルナンバーで、発売から二ヶ月あまりで370万枚を突破する特大ヒットを記録。2008年には、「日本でもっとも売れたシングル曲」としてギネス世界記録にも認定された。
02. 高中正義
日本を代表するギタリストのひとり。「サディスティックス」解散後はギターのインストゥルメンタル曲中心のソロアルバムをリリースするようになり、当時注目されはじめていたフュージョン色の濃い路線を進むようになる。YMOで音楽に目覚めたキッズたちの中には、1981年に発売された高中正義の七枚目のアルバム「虹伝説 THE RAINBOW GOBLINS」に夢中になった人も多いはず。
03. 橋本昌哉氏
『イース』シリーズのゲームデザイン、プログラミング、ディレクターを務めた人物。三作目の『ワンダラーズ フロム イース』開発終了後に日本ファルコムを退社してクインテットを設立。『アクトレイザー』などを手がけた。

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