さあにん@山本直人の我が青春のテレビゲーム

  • 記事タイトル
    さあにん@山本直人の我が青春のテレビゲーム
  • 公開日
    2021年11月19日
  • 記事番号
    6546
  • ライター
    さあにん@山本直人

第十八回:魔性のゲームタイトル『ジャンピューター』(1981年3月/アルファ電子・サンリツ技研)

大学生になって覚える3つのことというと「酒」「パチンコ」「麻雀」というふうに、昔は言われておりました。
まぁ大学生でなく、高校を卒業すれば(お酒は20歳からですが)、おのずと覚える「大人の嗜み」といえる3つのことであろうかと思います。

そんなふうに「大人の嗜み」であった「麻雀」。
幼い頃から家に麻雀牌はありましたし、何よりあの数字的な絵柄のデザインが大好きでした。
牌を使って神経衰弱みたいな遊びをやっていたものであります。
実際にそういう経験のある人も多いのではないでしょうか。

高校生でも「麻雀」が遊べる!

しかしそんな「大人の嗜み」である麻雀が、突然、高校3年生の私が遊べる環境になって登場しました。
それが今回のお題タイトル、『ジャンピューター』であります。

初めてゲーム画面を見たときの感想は「美しい……」でした。
置いてあったのは、よく行くゲームコーナーの類の場所ではなく、今でいう「ダーツバー」のようなお店。

喫茶店とバー、ビリヤードなどが併設されており、ちょっと大人の雰囲気のする、照明も暗めのお店でした。
ゲームコーナーというよりも、喫茶コーナーのテーブルがゲーム筐体だったという感じでしょうか。
その暗めの照明の下、あのタイトル画面は非常に美しく見えたのであります。
  

ここから流れるBGMと牌をツモったり、切ったりするSEなど、今でも思い出深く、癖になる音楽でありました。

ゲームはいわゆる「時間制」なのですが、残り時間=自分の持ち点という形になっており(点棒的なスコアは別にまたある)、持ち点が減っていき、マイナスになるとゲームオーバーとなります。
しかしながら、マイナスになった局までは遊べるという、割合と良心的なルールでありました。

もちろん役を上がれば持ち点がその分増えますので、マイナスからプラスに復帰して、次の局が遊べる、という流れも可能でした。
とはいえ、長考を重ねるとあっというまにマイナスになってしまうので、急いで牌を切る。
で、間違って有効牌を切ってしまう。
なんて流れは当たり前のように起こっていたのであります。

『ジャンピューター』のゲーム画面。この当時、こういったグラフィックで麻雀牌がきちんと表現されているのに感動したのであります。

まったくの「麻雀」ルール知らず

当時の私は、麻雀どころかセブンブリッジのルールも知りませんで、理解していることといえば

「3つの牌の塊を4つ作る」「同じ牌2つのアタマを作る」

ということぐらいでした。

3つの牌の塊は、同じ絵柄の牌か、同じ種類の牌の連番か。その程度の理解しかしておらず、「役」という概念などまったくありません。
何となく「文字1文字の牌は偉い」とか、本当にその程度の知識でありました。

ですので当初は「役なし」で和了ろうとしたり、フリテンで和了ろうとしたりとかで、さんざんな状態。
当然長く遊べるわけもなく、最低補償の1局のみを遊ぶという感じでした。

高校の同級生の中にはすでに「麻雀」のルールを熟知している友人たちもおりました。
その友人もまた『ジャンピューター』にハマり、一緒にプレイしながら、ルールを教えてもらい、1か月程度で「まともに」遊べるまでに成長。
1人でプレイすることはほとんどありませんでしたが、その友人たちと遊ぶときは、『ジャンピューター』のあるその店に行くのが定番となっていたのであります。

この『ジャンピューター』ですが、初のCPU対戦可能な麻雀テレビゲームとして、ある意味『インベーダー』以上に、世の人々を虜にしたと言えると思います。
4人(もしくは3人)集まらなければできなかった「麻雀」を、1人でいつでも遊べる。
しかも雀卓の支度も片付けもいらない。
麻雀ファンでなくとも、興味があった人なら誰でも飛びついたのではないでしょうか。

ライセンス供与によるものも多数出ており、高知ではタイトーの『T.Tマージャン』のほうが有名でした。
また、このタイトルをきっかけに、テレビゲームだけでなくマイコンなどにも「麻雀」ゲームを流行らせることになるわけです。
82年には家庭用テレビゲーム機が、83年には液晶ゲーム機が発売されていたりと、まさに1つのジャンルを確立した、革命児であると言えるかと思います。
  

魔性の「麻雀」ゲームがその本性を現す!

さて、その革命児『ジャンピューター』ですが、これにより「麻雀」のルールを覚える人が続出したであろうというのは、想像に難くないんですが、当然実際の4人打ち「麻雀」にハマる人も出てきたのではないかと思います。

いや、まさに私がそうだったんですね。
「麻雀」を覚え、対人で打つというのにハマってしまった1人でありました。
が、問題はそこではなく、当初は自宅に集まってみんなで打っていたのですが(当時、パチンコ店舗である実家の屋上にプレハブを建てて、そこが私の部屋になっていた。結構広く、また、家の中を通らずに出入りできるので、友人が泊まり込みで遊びに来ても問題がなかった。トイレだけは家に入らないといけないですが)、やがて「雀荘」にも向かうようになります。

で、その「雀荘」に行く時間帯は昼間。
あたりまえですが、高校生が夜に出入りはできませんので、昼間に行く。
いや、それって「授業中」なんですよ。

小中学校と、どちらかというと「優等生」だった私ですが、『ジャンピューター』の誘惑に負け、高3では学校を途中で抜け出し、授業をサボり、ついには卒業が危ないと言われる(特に武術の出席時間が危なかった)までになっておりました。
まさに魔性の『ジャンピューター』であります(いや、自己責任だって)。

マンガにゲーム、マイコンに麻雀。そして同人誌制作。
まさに自分の趣味の時間だけで生きていたのが高3時代。
そんな高校生活も、そろそろ終わりが近づこうとしておりました。

同人誌「我が青春のテレビゲーム」刊行のおしらせ

11月21日の「自主制作漫画誌展示即売会 COMITIA138」で、この連載を同人誌化した書籍を頒布いたします。
価格は1000円。会場に来られない方のために、秋葉原・BEEPさんでも通販と直販をお願いしております。
表紙は松下佳靖さん。裏表紙はくさなぎゆうぎさん。
  

中身ですが、以前刊行いたしました『超実録裏話ファミマガ』のようなデザインになります。
#1のページがこちら。
お気になったら、ぜひ、お買い求めください。

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