アーケードゲームが輝いていた時代を駆け抜けた男! 坂本慎一氏インタビュー 前編

  • 記事タイトル
    アーケードゲームが輝いていた時代を駆け抜けた男! 坂本慎一氏インタビュー 前編
  • 公開日
    2019年02月03日
  • 記事番号
    850
  • ライター
    こうべみせ

かつて16歳の若さでプログラマーとしてゲーム業界に飛び込み、やがてゲームミュージックコンポーザーとして『サイキック5』(1987年/ジャレコ)や『ワンダーボーイ モンスターランド』(1987年/セガ)など、数々の名曲を生み出していくこととなる人物がいる。

その人物こそ坂本慎一氏である。業界に名を残す人物は、やはり著名な人たちとの接点が多いもの。今回、坂本氏をお招きしてインタビューを実施。坂本氏の体験をベースにしながらアーケードゲームの発展を黎明期から順に追っていった。

ゲーム業界著名人らとのエピソードや、当時の開発環境や裏話など、興味深いお話を伺うことができ、充実したインタビューとなった。

初回となる今回は、坂本氏がゲーム業界を歩むきっかけとなったテーカン(*01)との出会いから、入社後のエピソードを中心にお届けする。

【聞き手】
ゲーム文化保存研究所
所長:大堀 康祐
ライター:こうべみせ

小学生でゲームにハマってから頭の中はゲームのことばかり

――坂本さんといえば、日本のビデオゲームの発展とともに業界を歩んできた大先輩ということで、本日お話できることを大変楽しみにしていました。かなり若い時期にテーカンに入社されたと伺っていますが、まずはその辺の経緯から教えていただけますか。

坂本 ゲームの開発者にありがちですが、ビデオゲームが好きで小学生の頃からのめり込んでいたというのが、まずありますね。ビデオゲームは『スペースインベーダー』(1978年/タイトー)から本格的にのめり込んでいっていますけど、それ以前のものから遊んでいましたし。

坂本氏が小学生時代にハマったという『スペースインベーダー』。画像は技の一つである「名古屋撃ち」(タイトー公式動画より)

大堀 『アクロバットTV(*02)』(1978年/タイトー)とか?

▲「『スペースインベーダー』登場以前からゲームにハマっていた」と坂本氏

坂本 『アクロバットTV』もやっていたし、それ以前はブロック崩しとか。不思議とのめり込んでいきました。当時はまだゲームセンター(以下ゲーセン)がなかったから、置いてあったのは喫茶店とかでしたね。
あとは(墨田区向島の)曳舟(ひきふね)駅前にボーリング場があって、メダルゲームやピンボールなどをしていました。

大堀 小学生でピンボールをされていたんですか。

坂本 やっていたと思います。確か、東武ボウルとかいうボーリング場の隅っこで。
中学生になると、そこで『スペースインベーダー』が登場し、100円を積んでプレイしていました。やっぱりそこにもうまいプレイヤーがいたんですよ。

そして『ギャラガ』(1981年/ナムコ)とかがリリースされて、そういったタイトルもプレイして、ゲームっておもしろいなと思ったんですよね。それでゲーセンでアルバイトしようと思ったんです。ゲーセンでバイトすれば遊び放題でお金も稼げると勝手な想像をしまして。

▲坂本氏のゲームのハマり具合に「ある意味、僕よりディープだ」と大堀所長

大堀 しかしその考え方は正しい!(笑)

坂本 かつて東京御茶ノ水にあったテーカン直営店のゲーセンで、猪瀬祥希くん(*03)とバイトで入ったんですよ。

大堀 猪瀬さんとはその頃から一緒なのですか?

坂本 彼は中学の後輩で、一緒にバイトを始めたというのがありますね。

ゲームセンターでテーカンにスカウトされる

▲バイト中にスカウトされたという坂本氏

坂本 ゲーセンでバイトをしていた時の話ですが、勤務中は何か機械にトラブルが起きない限り結構ヒマなんですよ。両替は両替機がやってくれるし。100円飲み込んだ時の対応と売上集計くらいしかすることがないんですね。

で、自分が通っていたのが工学系の学校だったのでポケコン(*04)を持っていて、お店で電卓インベーダーとかプログラムして遊んでいました

大堀 カシオの電卓インベーダーゲームを自分でポケコンに移植していたと?

▲1980年にカシオから発売され、ゲーム少年たちを魅了した「ゲーム電卓 MG-880」。2018年3月に復刻版「SL-880」が発売された。© CASIO COMPUTER CO., LTD.

坂本 そうそう。ヒマだったから。それをたまたま機材の定期点検に来ていたテーカンのサービス部署の人たちに「キミ、そういうことができるんだ」と言われて。

大堀 普通ならたしなめられますよね。お前仕事中に何やっているんだって。

坂本 ないない。そういうふうに注意されたことはありませんでしたよ。

大堀 いい会社ですね(笑)。

坂本 それでテーカンの人に「ちょっと本社に来てみないか?」と声をかけられまして。当時は簡単なものでもソースが書ければプログラムできる人間のように見られて、極端でしたよね

大堀 1か0かですよね。プログラムは「できるかできないか」でしかない。

坂本 そんな時代だから、僕はそんなにプログラムできる人間じゃなかったけれど、コンピューターとか知らない人から見たら「できる人」だと思われちゃうんですよ。

それで開発課に入ることになったんですが、本当はゲーセンでゲームをしたかったのになーと思っていました。でも、開発に入ればゲームし放題なんじゃないかとも考えちゃったんですよ。開発課にはゲーム筐体がいっぱい並んでいるイメージが浮かんだもので。それで、ゲーム開発をやるのも悪くないんじゃないかと(笑)。

――さすがに開発課はゲームセンターとは違うと思いますけど、入ってからイメージと違ってがっかりはしませんでしたか?

坂本 ところが入ってからゲーム機が置いてあるのを見つけたんですよ(笑)。『ギャラガ』や『プーヤン』(1982年/コナミ)だったかな。研究用で。当時のテーカンはまだ他社の基版をお手本にしていた状況だったんです。だから基本的に似たようなスペックになっていたんですね。

脚注

脚注
01 テーカン:テクモ(現 コーエーテクモゲームス)の旧社名。1986年に商号変更してテクモとなった。
02 アクロバットTV : Exidy社が開発した『サーカス』(1977年)のライセンスを受けて、タイトーが販売したバージョンのタイトル。シーソーを使ってジャンプし、画面上部の風船を割るというブロック崩しの亜流ゲーム。一般的には「風船割りゲーム」の呼称で知られている。
03 猪瀬祥希(いのせ よしあき):プログラマー。坂本氏とは幼馴染みでテーカンに同期入社する。代表作はファミコン用ソフトの『マイティボンジャック』(1986年)、『キャプテン翼』(1988年)など。
04 ポケコン : 正式名称はポケットコンピュータ。シャープやカシオからさまざまな機種が発売されていたポケットサイズのコンピューター。見た目は大きな電卓といった感じだが、フルキーボードが付いていてプログラムすることができた。ノートPCが登場していなかった当時は、モバイルできるPCといえばこれだった。

こんな記事がよく読まれています

2018年04月10日

ゲームセンター聖地巡礼「1980~1990年代 新宿」前編

今回から、新企画「ゲームセンター聖地巡礼」の連載がスタートします。当研究所・所長の大堀康祐氏と、ゲームディレクターであり当研究所のライターとしても協力いただいている見城こうじ氏のお2人が、1980~1[…]