ビデオゲームミュージックの父 小尾一介氏×大野善寛氏ダブルインタビュー 中編

  • 記事タイトル
    ビデオゲームミュージックの父 小尾一介氏×大野善寛氏ダブルインタビュー 中編
  • 公開日
    2019年01月18日
  • 記事番号
    789
  • ライター
    八木 貴弘

ゲームミュージックの歴史の1ページを開いたアルファレコード「G.M.O.レーベル」。前編では創始者ともいえる小尾一介(おび かずすけ)氏のお話を中心に、レーベル発足のきっかけなど、貴重なエピソードをお送りした。

今回は引き続き、「G.M.O.レーベル」から「サイトロンレーベル」に移行した流れ、そして1980~1990年代のゲームミュージックの事情について、大野善寛氏にお話を伺った。

細分化したアルバム作り、そしてゲームタイトルを1~2作品収録し、手ごろな価格で販売した「1500シリーズ」について、当時「サイトロン・アンド・アート」に在籍していた当研究所の大堀康祐所長とともに掘り下げていく。

【聞き手】
ゲーム文化保存研究所
所長:大堀 康祐
ライター:八木 貴弘

アルファレコードからサイトロンへの移行は、映像がキーワードだった

▲すでに音楽だけでなく、映像にも注目していた小尾氏

――それでは、アルファレコードの最後の流れで、アルファからサイトロンにどうやって移行していったのかお聞かせいただけますか?

小尾 それはですね、アルファレコードが「G.M.O.レーベル」を作って、そちらではセガさんやコナミさん、タイトーさんの作品を出させていただいたわけですけれど、その流れから、この辺りで音楽だけではなく、ミュージッククリップ的なビデオを出そうということになりました。

ファンからはゲーム攻略的映像の要望もあり、ビデオを企画したのですが、いざ売ろうと思ったら、アルファレコードに当時ビデオを売る販路がなかった。それで二の足を踏んでしまったんですよね。最終的にポニーキャニオンさんにお願いしようという話になったんです。そこからお付き合いが始まりました。

――なるほど。そこで当時ポニーキャニオンとお付き合いが始まるようになったわけですね。

小尾 アルファもビデオは発売していたんですが、残念ながらその頃、斜陽だったんですよ(苦笑)。村井邦彦さん(*01)は辞めちゃうし。YMO (*02)が稼いでくれていた時代は良かったんですけど、その後はあまり大きなヒットがなくてね…。

だんだんだんだん会社がこう(斜めに)なってきちゃって、輸入車を販売している「ヤナセ」という会社が、アルファレコードのスポンサーっていうか支援をしてくれていたんですが、それでもだんだんと状況が厳しくなってきまして。

それで、我々もその少し前から自由に「こういうレコード作りをしたい」と言えないような雰囲気になってきてしまった。だったら、「いっそのこと独立しちゃおうぜ」って話になりまして、「サイトロン・アンド・アート」という会社を立ち上げました。

そこで「我々は原盤制作をします」とゲームメーカーさんに交渉をして、販売はポニーキャニオンさんにお任せすることになりました。「サイトロン・アンド・アート」は、音楽の原盤制作もしながら、ビデオも録って映像分野にもかかわっていくようになり、それでポニーキャニオンさんの中で「サイトロンレーベル」を立ち上げたわけです

――「サイトロン・アンド・アート」は映像制作がやりたくて作った会社と言っても過言ではないということですね。また、ポニーキャニオン内でスタートしたレーベルでもあったのですね。

小尾 ポニーキャニオンレーベルの1部門というか。制作スタッフは1人だけじゃなかった。何人かいましたね。

大野 ファンクラブからスタッフをリクルートして数人体制でやっていました。

――当時、ポニーキャニオンの映像制作部に鈴木高文さんという方がいらっしゃいましたよね?

大野 そうです。鈴木さんが窓口担当で、映像作品をけっこう担当していただいて。そこに大堀さんも合流してくるわけですね。

大堀 僕はですね、当時「ゲームスタジオ(*03)」でアルバイトをやっていまして(笑)。ある日、ゲームスタジオにいた大野木宣幸さん(*04)たちの間で、会社が変わるんだって話をしていて。

――ちょうどサイトロンレーベル立ち上げのタイミングのお話ですよね。

小尾 1986年に「ゲームスタジオ」とは別に音楽専門の「デジタルエンターテインメント」という名前の会社を作ろうという話になりました。当時、僕たちはまだアルファレコードにいたんですが、新しい会社はゲームスタジオの兄弟会社みたいな感じにして、音楽系のことをやる会社にしようと。

すると、大野木さんとか元ゲームスタジオのメンバーが「自分たちがやります」と買って出てくれたので、僕らはアルファを辞めて、「サイトロン・アンド・アート」という名のデジタルエンターテインメント会社を創り、新組織でスタートさせました。そこで、原盤制作を始めるようになります

大堀 う~ん、そうだったんですね。僕は知らなかった…。

――大堀さんはそこでどういったお仕事を。

大堀 僕は単にアルバイトとしてゲームスタジオで働いていて、新しいデジタルエンターテイメントの会社ができるんで、何人かはそっちに行くけど、「君はどっちにする?」みたいな(笑)。当時はよく分かっていなかったんですが…。

小尾 ナムコ脱藩組の中から、6人くらいじゃないかな? 元ナムコの遠藤雅伸くん(*05)とか。

▲元ナムコメンバーとも親交が深かった大野氏

大野 黒須一雄さん(*06)もいらっしやいましたね。

――それでは、映像がやりたいということで、「サイトロン・アンド・アート」が作られたと。

小尾 そうです。でもそれだけではなくて。当時はゲームのミュージッククリップ的な動画をビデオカセットの形態で販売し、音楽系のチャンネルとかMTVとかで流されていました。ゲーム関連の映画もあって、レコードもあるしカセットもある。

その一方ではファミコンもあって、エンターテインメント業界も多様性があった。メディアは異なるけれども、どれも基本的にデジタル機器を使って作っているという共通点があった。音楽ももちろんね。映像もCGとかだし。

だから、(「サイトロン・アンド・アート」は)「映像」や「音楽」、もしくは「ゲーム」をデジタルの技術で作る。そういうことをやっていく制作会社にしていきたいと思っていました。

だって、ナムコから来たメンバーもいるし、我々みたいに映像や音楽の専門メンバーもいるから、もっとクリエィティブに広がっていくんじゃないかっていう考え方をしていましたね。だから、必ずしもビデオや映像だけにこだわってはいなかったです。

――デジタル全般を見据えていたのですね。

小尾 そのあとCD-ROMの時代が来た。まさにCDっていうあの形の中に、映像も音楽も、プログラムも全部入っている。

――それこそCD-Vとか、CDで映像も観られましたからね。DVD登場の前に、すでに映像媒体があった。『大魔界村』(1988年/カプコン)のアーケード版に映像と音楽が両方入っていて、そういったメディアは当時珍しく、新しい時代を感じました。

脚注

脚注
01 村井邦彦 : アルファレコード創立者。ユーミン(松任谷由実)のプロデューサーとしても知られ、YMOを成功に導いた。「翼をください」の作曲者と言えば、エヴァンゲリオンファンの方はニヤリとするだろうか。
02 YMO : Yellow Magic Orchestra(イエロー・マジック・オーケストラ)。村井邦彦が手掛けたアルファレコードの中心となった音楽グループ。
03 ゲームスタジオ : 遠藤雅伸氏が設立したゲーム制作会社。ナムコのレジェンド作曲家、大野木宣幸も参画。「サイトロン・アンド・アート」とはフロア違いの同ビル内にあり、ともに良い影響を与え合っていた。
04 大野木宣幸 : 『ギャラガ』(1981年)、『マッピー』(1983年)などナムコの数々の名作に名曲を提供してきたレジェンドサウンドクリエイター。ナムコ退社後は遠藤雅伸氏とともにゲームスタジオ設立に参加。G.M.O.レーベル、サイトロンレーベルでアルバムのプロデュースもしている。
05 遠藤雅伸 : 当メディアの読者であれば、言わずとしれた『ゼビウス』『ドルアーガの塔』(1984年/ナムコ)などの開発者。
06 黒須一雄 : ナムコの開発チームに在籍していたプログラマーで、『ラリーX』(1980年)や『ボスコニアン』(1981年)などを手掛けた。遠藤雅伸氏とともに1985年にゲームスタジオを設立し、現在も取締役を務める

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