ビデオゲームミュージックの父 小尾一介氏×大野善寛氏ダブルインタビュー 中編

  • 記事タイトル
    ビデオゲームミュージックの父 小尾一介氏×大野善寛氏ダブルインタビュー 中編
  • 公開日
    2019年01月18日
  • 記事番号
    789
  • ライター
    八木 貴弘

制作予算に頭を抱えたサイトロン初期

▲サイトロンの名付け親でもあった小尾氏

――ところで「サイトロン・アンド・アート」の「サイトロン」の名付け親ってどなたなんですか。

小尾 私です。

――あれはどういう意味合いで。

小尾 さっき話した通り、デジタルってものを使うわけですが、やっぱり映像や音楽っていうのは、アートっていうか芸術でもあり、おもちゃでもある。エンターテインメント性もあれば、純粋な芸術性もあるんだけど、デジタルっていうのはやっぱり技術だから、科学によって出来上がったんだろうと思い、サイエンスとアートを融合させた名前を付けようと思いました。

ただサイエンス&アートじゃ一般的すぎるだろうなと思ったんで、ちょっともじりました。

大野 サイエンスとTRONプロジェクト(*01)のトロンを組み合わせじゃなかったかな。

――サイトロンが立ち上がって、その後いろいろなシリーズが作られるわけですけど、小尾さんは「このメーカーのこのタイトルを作れ」と指示するよりは、もっと全般を見ていて、タイトルごとの制作は大野さんが担当するというような形でやられていたんですよね。

小尾 僕もアルファレコードの時はサラリーマンだったわけだしね。「サイトロン・アンド・アート」っていう会社では、社長をやっているわけでしょ。会社経営っていうのをやらなきゃいけない。毎月毎月のお金のことを心配しなきゃいけないし、当然社員のことも心配しなきゃいけない。

やっぱり誰かが文句を言ってきたら、最後は社長がなんとかしなきゃってこともあるし。そういう会社経営をこの会社で学びましたね。

――制作にあたって、難題に直面することもあったのではないですか?

大野 予算の使いすぎを指摘されたことがありましたね(笑)。

――当初、いくらぐらいの予算があったんですか。

大野 ポニーさんとの間で、だいたい1コンテンツこれくらいみたいな枠はあったけど、ある程度任せてもらっていました。でも、中には「こんなにかけちゃった…」というのもあって、(小尾さんに)言われるだろうなと思ったら、案の定呼び出されて、なんでこんなにかけているんだって(笑)。

――何か覚えています? お金のかかったタイトル。

大野 ZUNTATA(*02)(笑)

一同 (笑)

――速攻で答えられるところがまた(笑)。

小尾 あれは、実際に(ZUNTATAの)メンバーがレコーディングをしたからね。

――(ゲームの)アルバムを作る場合、基本的に基板から収録したオリジナルのサントラ盤を作るじゃないですか。お金がかかったというのは、アレンジ盤の場合ですか?

小尾 アレンジバージョンってのは実際に演奏しているしね。

大野 スタジオのコストランニングは、使った日数分かかるわけですから。

――1日で終わると思ったら、1週間かかっちゃったとか。

大野 長考に入られて(笑)。

――スタジオで長考ですか(笑)。大野さんはこういう方向にとか、こういうものを作りたいっていうビジョンはあったんでしょうか。

大野 いやもうほんと、小尾さんがレールを敷いてくれて、その上を安全走行で走るだけ(笑)。本当にそういう流れでしした。

ゲーム基板からアレンジがあって、バンドに発展して、ライブを開催するようになった。普段、ファンの皆さんとはCDに入れていたアンケートで意見をいただくということでしか接点がなかったのですが、(ライブを開催することによって)アーティストにより近く接することができるようになった。このような流れは、自然発生的に出てきました。

――何か特権を生かして自分の好きなジャンルの方向にアレンジを持ってくるとか、そういうことはなかったですか?

大野 けっこう重要な部分にかかわったのは途中からなんですけど、どの時期にかかわったかはちょっと曖昧です。自分は業務用もやりましたけど、パソコンのゲームが好きだったんです。それで、確かゲームメーカーの日本ファルコム(*03)さんとかエニックス(*04)さんとかに飛び込みで営業に行ったこともありました。

収録の苦労は今も昔も…

▲実は(サイトロンにおける)ゲーム映像商品の影の立役者であったという大堀所長

――その辺りのお話を聞いて、大堀さんはいかがですか? 当時かかわってきて、自分だったらこういうふうに作ったのに、というような思いはありました?

大堀 ゲームファンとしては、ゲーム音楽のレコードを出してくれること自体がうれしかったですね。子供の頃は自分でゲームセンターにラジカセ持っていって録音していましたから

テーブルゲームって、2P側の所にだいたいスピーカーがあるんです。そこにイスを置いてラジカセを乗せて(笑)。録音ボタン押しながら、なるべく敵を撃たないようにプレイして…とか。そんな感じで雑に収録した音楽を聴いていたから、ちゃんとした商品としてリリースされるのは、ファンとしてうれしい限りだったんです。

小尾 実際いたよ、アルファレコードにカセット持ってきた人。「自分で録ったんですよー」って。

――「作らないなら俺が作る!」的なマニアは当時からいましたが、まさかレコードメーカーに殴り込みかけるほどのツワモノもいたとは!!

大堀 当時、ゲーム音楽は文化として認知されてなかったので、(サイトロンが)正規品販売をやってくれたことがうれしかったですね。1980年代、アーケードゲームといえば「ゲーセン=不良のたまり場」とか「テキ屋の延長線上にゲーム屋がいる」とか、そんなダークなイメージでした。

そういうものをちゃんと評価し、(一つの音楽として)世に出してくれたのはすごくうれしかったですよね。ゲーム制作者だけじゃなくて、こうやって周りで支えてくれる人がいたから、ゲームが文化に昇華できたと思っています

――大堀さんは、やっぱりゲーマー歴も長いし、ゲームの知識もいっぱいある。ユーザー寄りの立場で作られるというか…。その点、大野さんとか小尾さんは、プロデュース寄りというか作る側寄りだったので、ちょうどバランスが良かったのでは?

大堀 「サイトロン・アンド・アート」はゲーム開発の部署とCDレーベルの部署に分かれていて、僕自身も「サイトロン・アンド・アート」のゲーム制作部門に所属していたんですよね。

――大堀さんは、「サイトロン・アンド・アート」時代にどんな仕事を主にされていたんですか?

大堀 ゲーム映像を収録する際に、(そのゲームを)プレイする役とか。当時、まだテストモードなんてないゲームが多かったんで、「弾撃たないで逃げろ!」が仕事の最大のミッションだったりするわけですよ。「うわ~無理だよ~!」って言いながら…。

でも、死んでしまったら収録をやり直さなければならないので、多少は攻撃しなければならない。そうするとやっぱり、ユーザーから「なぜ弾を撃つ!?」とか、「効果音出すな」みたいなハガキがきました。そのたびに、申し訳ないなあと。

――いやいや、ゲームの天才、大堀さんだからできたことですよ。

大野 だって『ガンスモーク』(1985年/カプコン)で弾を撃つなっていうほうが無理じゃないですか(笑)。

――シューティングゲームで弾を撃つなって話ですもんね。

大野 そうそう。けどね、そういう試行錯誤があって、そして商品として世に出たことによって、ゲームメーカーのサウンドチームとの協力体制が次第に築かれていったことはうれしかったですよね。音もちゃんと(作っていて)、楽曲を作るチームが原盤を作って、アレンジ曲にもこだわって手を入れて来ていただいて。それは、すごくうれしかったですね。

ムーブメントを感じられたゲーム音楽のライブ

――反響っていかがでしたか? そのCDやレコードを買ってくれたユーザーの声は、どんな形で聞けたんですか? 当時はハガキだけですかね。

大野 (ユーザーから)直接電話があったこともありましたね。

小尾 あと、ライブもけっこうやったしね。

大野 やっぱり、そのライブの時が一番、これだけのムーブメントが起きているんだ、と実感できた。初めてユーザーやファンの人々と顔を合わせるわけで、その日は幕が上がるまで不安でしょうがなかった。

――最初のライブって何だったでしょうか?

大野 えーと、やっぱりセガの「メガドライブ スパークリング ライブ 1989」、東京・大阪・名古屋3カ所でやったやつ。セガのメガドライブ(*05)が出たときに、「S.S.T.BAND」っていうセガのバンドを、そのイベントの販促用に立ち上げたのが最初だね。

▲1989年のS.S.T.BANDライブで披露された『アウトラン』(1986年/セガ)のBGM「Magical Sound Shower」(S.S.T. Band公式YouTubeチャンネルより)

――メガドライブだったんですね、最初はね。

大野 実はそれより前に1つあったんですよ。

――ほほう。

大堀 何かのイベントで、サイトロンのゲームミュージックを生で演奏するって企画があって、なんかよく分からない僕も知らない人たちが集められて。その後ろで「ゲームをする人」ってのを僕がやって(笑)。

――今で言うとVJとかそんな感じですかね。

大野 曲の演奏の後ろに大堀さんがプレイするゲーム映像を流すのですが、そのゲームは自分がもっていったファミコンソフト『グラディウス』(1985年/コナミ)の「アルキメンデス版」(*06)でした。(笑)

――へえ~。それはそれでファンサービスになったのでは!

大堀 あれ、今売ると高いですからね。プレミアついちゃって。

――じゃあ、大野さんはどちらかというとオリジナルよりはアレンジをやりたい派?

大野 というか、大野木さんがいたからね。基板を収録してどうっていうのは大野木さんの役割。僕はアレンジの要素とか、あとジャケットをどうするとか。そういうところを担当していた感じですよね

脚注

脚注
01 TRONプロジェクト: 1984年、東京大学の坂村健氏の発案より開始されたコンピュータ応用分野全体の革新的な標準アーキテクチャ構築プロジェクト。
02 ZUNTATA(ズンタタ) : タイトーサウンドチームの総称で、アルバム『DARIUS―TAITO GAME MUSIC VOL.2』でその名が公表された。セガの「S.S.T.BAND」やカプコンの「アルフ・ライラ・ワ・ライラ(後のALPH LYLA)」などと並ぶゲームメーカー公式バンド。
03 日本ファルコム : パソコンゲーム黎明期からある老舗のゲームメーカー。代表作は『ドラゴンスレイヤー』シリーズ(1984年~)、『イース』シリーズ(1987年~)、『英雄伝説』シリーズ(1989年~)など。ゲームミュージックへの着目が早く、1988年には専用レーベルとして「ファルコムレーベル」を立ち上げた。
04 エニックス : 現スクウェア・エニックス。パソコンソフト会社として設立され、任天堂との提携により家庭用ゲーム機市場に参入。特に『ドラゴンクエスト』シリーズ(1986年~)で知られる。2003年にスクウェアと合併した。
05 メガドライブ : セガと親密な関係にあった「サイトロン・アンド・アート」は、コンシューマー機であるメガドライブの音楽やアレンジも収録するなどしていた。
06 グラディウス アルキメンデス編 : 1985年に大塚食品が発売した冷やしかた焼きそば「アルキメンデス」とタイアップした特別バージョンの『グラディウス』。プレゼントの景品だったため非売品。

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