我が青春のテレビゲーム

  • 記事タイトル
    我が青春のテレビゲーム
  • 公開日
    2020年07月24日
  • 記事番号
    3247
  • ライター
    さあにん@山本直人

第四回:スペースインベーダーがやって来た!(その2)

1979年の春になる頃には、高知にも遅れてのインベーダーブームがやって来ておりました。
はりまや橋交差点のすぐ近く(はりまや町1丁目、西鉄インの横だったはず)には、すでに「ゲームプラザ・ウイン」なるゲームコーナーが出現しておりました。
この「ゲームプラザ・ウイン」、射的があったり、アップライト筐体が中心だったり、メダルゲームがあったりと、中規模の総合ゲームコーナーで、当時はまだ、テレビゲームが主役というわけではありませんでした。

ブームが巻き起こした混沌

インベーダーブームというと、よくニュースに出てくる「インベーダーハウス」が頭に浮かぶかと思いますが、田舎にはそんなものまだありません。
喫茶店のテーブルの1つがテーブル筐体に入れ替わって設置されているというくらいがせいぜいで。
しかもそういうところに設置してあるのは、たいがいコピー基板。
まぁ、置いてあるお店の人はそんなことは知らず、自販機とかの設置のように

「これ、置いてみてくださいよ。流行ってるんですよ」

とか、セールスに来た業者さんに言われるがままに、リースで置いている(この場合のリースは、事務機等のリースでなく、遊技機を置くことで売り上げの何割かをもらえるというもの。業者:お店が6:4くらいが普通だった)だけなんですが、正規代理店ではないので、ほぼコピー基板という流れ。

で、コピー基板によるテーブル筐体にもいろいろあって、

●コントローラが違うもの

レバーでなく左右移動がボタンになっているにとどまらず、ボリュームコントローラ式のものもありました。
とはいえ『ブロック崩し』のような移動でなく、左右にボリュームを捻る(左右45度程度に捻ることができる)ことで、砲台を移動させるというもの。細かな移動調整ができないので、ゲーム難易度が高くなってました。

●キャラクターが違うもの

インベーダーのキャラクターを変更しただけで、中身は同じというもの。

……といったものが主流でした。
その後、キャラクターや音楽を追加したり、ゲーム性にかなりのプラスアルファをしたりといった、プログラム改造型のものが登場してきますが、それはもう少しだけ後の話。

当時のコピーで代表的な3作品の登場キャラクター。左から10点、20点、30点、砲台、トーチカ、UFO。『コスミックモンスター』には最初30点のインベーダーが存在せず、UFOを撃ちのがすと母艦から30点のインベーダーを補充し、列を増やす。また、『スーパー・スペースストレンジャー』(スーパーは商品名のみについていた)は、トーチカを撃つと50点減点された。図版作成:山本直人氏

それでも1979年のゴールデンウィークの頃になると、あちこちにテーブル筐体のゲーム機が置かれるようになります。
それに伴い、コピー基板の類も消えていきました。

唐突に訪れた変化の波

名古屋撃ちの情報が口コミで流れ、自分の耳までたどり着き、レインボーもマスターし……と、連日『スペースインベーダー』の日々。
もう「全部倒したらどうなるのか?」なんて疑問は抱いておりません。
ショッピングモールの休憩所に置いてあったマシンで名古屋撃ちをやっていたら、通りかかった外国のかたに

「オー! グレイト! ナイスタイミング!」

とか、拍手されたことがあります。
すごく恥ずかしかったですな。

名古屋撃ち、レインボー以外にも、トーチカを撃っていると、インベーダーがいないはずなのに当たり判定が出現し、該当(撃たれた)するインベーダーが障害物化する現象(化石とかゴーストとか呼ばれてました)、それに伴い、上のほうにいるインベーダーが画面を折り返す際に「ズダダダダーン!」と一気に下に降りてくる(侵略負けでゲームオーバーになる)現象(つるべ落とし、と勝手に呼んでました)とか、遊んでいるうちの発見もありました。

『コスミックモンスター』のUFOと母艦。ドッキングすると、下のインベーダーの量を無視して30点のインベーダーを降らしてくる。図版作成:山本直人氏

しかし、社会現象となった『スペースインベーダー』は、大人だけでなく、小中高校生にまでそのブームは拡がり、問題になってしまいます。
以前はメダルゲームやテレビポーカーが設置されていた、24時間営業のゲームコーナーやゲーム喫茶にもインベーダーが置かれて、深夜まで遊ぶ姿が報告されたり、自販機コーナーに設置されたマシンが盗まれたり、コインタンクのお金が盗まれたり。
いろいろな事件が起こりました(盗難防止のため、太いチェーンでロックされたり、警報機付きのテーブル筐体が登場したりしています)。

高知では6月頃に教育委員会から「自粛するように」とのお達しが。
私の通っていた高校は、高知市内の繁華街近くなので、教員の見回りも多く、学校近くで遊ぶのは止めて、少し外れた駄菓子屋や自宅近くの喫茶店とかでこっそりと遊んでおりました。
あとは逆にデパートの屋上ですね。場所として健全な場所。

そんな「自粛」通達があれども、変化の波は訪れます。
高知市内にも多くのゲームコーナーが出現します。ベルエポックビル(高知市追手筋)内のワンフロア。ショッパーズプラザ高知(帯屋町商店街)などなど。

住宅地によくあった「プレハブ」のゲームコーナーも自宅近くに出来ました。
閉店した雑貨屋さんが小さめのゲームコーナーになっていたり。
どこもかしこもテレビゲームだらけ。
学校の見回りもあっという間にフェードアウトし「夕方18:00以降の出入り禁止」みたいな感じで、ゆるやかなものにと変わっていきます。

そして1979年の後半に向け、テレビゲームは一気に時代を進めていくことになるのです。同時に私の青春も、一気に別方向へと舵を切ります。

   
●追記
第1回に記載しました「ニチイ」のゲームコーナーですが、運営されていたのは「マル三商会」でした(元・レジャックの設立会社。レジャックは『スペースウォー(カメレオンアーミー)』(1979年/コナミ)のなどの販売会社)。『ゲームマシン』1978年9月15日号にて紹介されております。
このゲームコーナー、前出の「ゲームプラザ・ウイン」と同じ「マル三商会」さんの運営で、設置されている内容など、今思い返すと「なるほどな」という感じです。

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